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イーサン・グレイ

 最上階(ペントハウス)から非常階段で二十九階に下る。蛍光灯が照らす中、クロフォードがIDカードを穴が開くほど凝視する。


「——ハーネリア内閣府発行のこれによると、イーサン・グレイは王室庁の職員、つまりハーネリア人……で、でも、今はホミアで探偵をしていて……あれっ、つ、つまり、あなたは身分を偽っているスパイってことじゃないですかっ!」

「人聞き悪いこと言うな、別にこの国の秘密情報を狙ってるわけでもない、合衆国とハーネリアは同盟国だろうが」

「そ、そういう問題ではありません! というかそもそもこの国でのイーサン・グレイという人間が実在するかも法的には曖昧ですし、スパイ防止法の他に、不法入国及び不法滞在、公文書偽造など違法行為が山盛りです!」

「ねー、世の中意外な真実があるもんだねー」

「ふざけないでください!」


 クロフォードが真剣な顔で詰め寄ってくる。


「そんな大層なもんでもないんだぜ。確かに実態も活動も秘密だが、言っちまえば俺はただフリスカ様のワガママを叶える為にこの国で活動してんの」

「ダリアさんに会いたい、あなたは王女様のたったその願いを叶える為だけの理由で、ここまで命を張っていたと、そう言い訳するつもりですか⁉」

「まぁな、事実だもん」

「で、ですが、あなたがホミアで探偵事務所を開いて営業していた説明にはなりません。ホミアで何をしていたんですか」

「監視だよ監視。ホミアにはフリスカ様の姉ローザ様がいるからな。結婚して王室を離れたとはいえ高貴な生まれには違いない。タブロイド紙に『元プリンセスがハッパで乱痴気騒ぎ』なんて見出しが躍った日にゃ、国の恥だ。フリスカ様は自由奔放な姉君を心配しておられるんだよ」

「ミドルトン夫妻……そういえばフェリー警部補がその言葉を口にした時に反応していた……プリンセス・ローザの件はホミアの警察しか知らない情報……そうか、だからイーサンとフェリー警部補は協力し合っているんですね」


 わなわなと震える指を組んでクロフォードは頷いた。


「そゆこと、ローザ様を監視したい王室側、つまり俺、と管轄内で問題を起こしたくない市警側で利害が一致しているからな。昔からの知り合いってことでジェイクが窓口になってんだ——お分かりか?」

「イーサンがスパイだとは未だに思えませんけど、生のフリスカ王女も見てしまいましたし……信じるしかないでしょう」

「よし、これで疑問は解決! さっさとガキ連れ戻してフリスカ様に会わせるとしますか」

「本当にこれがスパイ? 緊張感のない……いやでもスパイはスパイだとバレてはいけないわけですし、逆にこの力感の無さこそ本物たる所以?」


 ぶつぶつ言うクロフォードは大げさな解釈をしているようだ。


 身分を偽り一般社会に溶け込む諜報部員を浸透工作員と呼んだりするが、グレイがやっているのはただの監視であり、探偵業務に過ぎない。破壊工作や利敵活動を行うイメージしやすいスパイとは大きく異なる。


(王のスパイって言えば聞こえは良いけど、実際は召使いとか何でも屋なんだよな)


 最上階(ペントハウス)のメインエレベーターはロビー直通の為、二人は二十九階の静謐な廊下を進み、その階のエレベーターに乗り込んだ。

 ヴァルター・ライツの部屋がある二十二階のボタンを押す。箱が緩やかに動き出した。


 次にドアが開いた時、作戦は始まる。


「ジョンとダリアはヴァルター氏の部屋にいる可能性が高い。コリンはこのままエレベーターで待機、ダリアと、もしいたらヴァルター氏を乗せるからできるだけホテルから遠ざけてくれ」

「お墓参りの約束を忘れないでくださいね」

「ダリアを助け出しフリスカ様に会わせる、俺とコリンは仕事を終え、墓参りをしてホミアへ帰る。俺は次の事務所を探し、お前は仕事に復帰する」


 グレイは拳銃のスライドを引く。


「落ち着いたら一杯付き合え。奢ってやる」

「何を、こんな時に口説いてるんですか」

「ヤバい時には、乗り越えた先の明るい未来を想像すんだよ。死亡フラグだから止めろって言ってんのにアランはいつも希望を口にした。死んだ奴のマネなんざ縁起でもねぇが、ポジティブなのは悪いことじゃねぇ、だから約束、小さな傘がついたバカみたいなカクテルで乾杯だ」

「朝まで付き合ってもらいますからね、私強いので。覚悟してください」


 二人は拳を突き合わせた。


 チン、とベルの音が響き、鉄の扉が開いた。


「——あぁ、クソ」


 廊下の先、数人の男達が手に持った何かを構えていた。


「壁に寄れ!」


 グレイが叫んだのとほぼ同時、発砲音が連続する。弾丸の波が押し寄せ、エレベーター内に火花が散った。

 背中でクロフォードを角に押し付ける。

 式典が行われるホテルで発砲沙汰はないだろう、という希望的な予測が瞬時に崩壊した。


 どうも音を聞く限り相手は五、六人ほど。

 射線に晒す身体の面積を最小にしつつ半身のまま応戦する。


「ちくしょう! バッチリ警戒されてんじゃねぇか!」

「どどどどうします⁉ いったんドアを閉めましょう!」


 狙いも何もあったものではない射撃の内の一発が運よく命中し、男が廊下に倒れた。カーペットが敷かれていない剥き出しのコンクリートの上に血だまりが広がる。


 仲間が倒れたことに動揺したのか、弾幕が薄くなった。

 転がるようにエレベーターから飛び出し、エレベーター乗り場の壁に張り付く。


 分譲用に改装中のフロアは内装工事に着手する段階で、見える景色のほとんどが灰色。ところどころに粉塵飛散防止のビニールシートがかけられている。


 エレベーター内の操作盤の下にへたり込んだクロフォードが叫ぶ。


「ちょっと! 何飛び出してるんですか⁉ ここは撤退して仕切り直しましょう! 一人じゃ無理ですよ!」

「お前は逃げろ!」

「応援を呼びましょう! 一階には警備も沢山います!」

「ふざけんな! んなことしたら式典は中止になるし、フリスカ様も避難しなきゃならなくなる! そうなればもう二度とダチに会えなくなっちまうだろうが!」

「だからって! ここであなたが死ねば全て台無しです!」


 銃撃が再開される。壁のコンクリートが弾け飛び、破片がグレイの鼻先を掠める。


「死ぬつもりなんかねぇよ! 相棒が助けてくれるはずだからな! どうにかして俺を助けやがれ! 優秀なお巡りなんだろ、お前は!」

「っ!」


 クロフォードは震える手を伸ばして操作盤のボタンに触れる。

 唇をぎゅっと結んだ姿が、閉じていくドアの向こうに消えていった。

 グレイは銃弾が飛ぶホテルの廊下で胸を撫で下ろす。


「アイツの墓の前で、妹を死なせたって謝るのはごめんだ」


 友の妹を死なせるわけにはいかない。王女の願いを諦めさせるわけにはいかない。

 奥歯を噛みしめグレイは廊下の射線上に飛び出す。

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