第8話 愛の重さ
午前の授業の終わりを告げる、四時限目のチャイムが校舎に鳴り響いた。
クラスの空気が一気に弛緩し、あちこちで机をくっつける甲高い音が響き始める。いわゆる「昼食のグループ形成」という、陰キャにとって最も肩身の狭い時間がやってきたのだ。
私は誰とも目を合わせないように手早く机の上を片付け、鞄から小さなお弁当箱を取り出した。
中身は、母が朝の忙しい時間に詰めてくれたものだ。
昨日の晩ご飯の残りである茶色い唐揚げに、少し焦げた甘い卵焼き、そして申し訳程度に隙間を埋めるブロッコリー。
決してSNS映えするような代物ではないが、この地味で堅実なお弁当の時間は、私にとって息を抜けるオアシスだった。
――はずだったのだ。
「細川さん! 一緒に食べましょ!」
鼓膜を震わせる、底抜けに明るい声。
ビクッと肩を揺らして顔を上げると、そこにはお弁当の入った可愛らしいトートバッグを提げた才川さんと、購買で買ったと思われる焼きそばパンと牛乳を片手に持った金剛寺さんが立っていた。
「今後の活動方針を決めるぞ」
「……」
私は無言で、こくりと頷いた。
それ以外の選択肢など、どこにも存在しない。
私が頷いたのを合図に、才川さんが嬉々として自分の机を私の机にくっつけてくる。金剛寺さんも前の席の椅子を反転させ、長い脚を持て余すようにドカッと腰を下ろした。
当然、クラスメイトたちの視線が私たち――
正確には、私という異物に突き刺さる。
『あの三人、なんで一緒にお昼食べてるの?』
『陰キャのくせに、カースト上位に媚び売ってんじゃないの?』
私の優秀な被害妄想フィルターが、周囲のひそひそ話をすべて「私への悪意」へと自動翻訳していく。キリキリと胃が痛み出し、せっかくの唐揚げがただの砂利のように感じられそうだった。
* * *
「とりあえず、練習は各自家でやって、合わせる時はうちのハコ(GUREN)が空いてる時ってことでいいな。あんまり頻繁には無理だが」
金剛寺さんが焼きそばパンをかじりながら、事務的に確認してくる。
才川さんに強引に誘われてから数日。なんだかよく分からない濁流に飲み込まれるように、私のバンド活動はスタートしてしまった。
「うん! それで、まずはバンド名を決めないとなーって思って!」
才川さんが、卵焼きを箸で突きながら意気揚々と宣言した。
バンド名。
その響きに、私は少しだけ胸がスッとするのを感じた。バンド名というのは、そのバンドの看板であり、アイデンティティだ。横文字のクールな名前か、あるいはちょっと捻った日本語名か。
「――バッチリ考えてきたの!」
才川さんは自信満々にふんすと鼻を鳴らし、私たちを見回した。
「私たちのバンドの名前は、『KANADE-ZAKURA』よ!」
「……」
……ん?
かなで、ざくら??
私の脳が、その文字列を理解するまでに数秒のラグを要した。
KANADE(奏)。ZAKURA(桜)。
……嘘でしょ?
「私と細川さんの名前を、合体させたのよ! 二人の魂の融合って感じで、最高にエモくない!?」
「……っ!?」
(なんで!? なんで私と才川さんの名前をドッキングさせたの!?)
私は声に出せないツッコミを、内心で嵐のように叩きつけた。
顔から火が出るほど恥ずかしい。自分の名前がデカデカと冠されたバンド名なんて、自己顕示欲の塊みたいじゃないか。
「……まあ、いいとは思うけど」
金剛寺さんが、牛乳を飲みながらあっさりと同意した。
(えっ!? 金剛寺さん、いいの!?)
「萌の名前は入れなかったわ。――邪魔だから!」
才川さんが悪びれもなく言い放つ。
普通ならここで「なんで私の名前を外すんだ!」と喧嘩になってもおかしくない。
私が金剛寺さんの立場なら、絶対に怒る……かも。
「良いよ別に。自分の名前入りのバンド名なんて、恥ずいし」
金剛寺さんは、涼しい顔で焼きそばパンの最後の一口を放り込んだ。
(……やっぱり、恥ずかしいんだ! 金剛寺さんも恥ずかしいと思ってるじゃない! だったら止めてよ、なんで私だけがこの十字架を背負うことになってるの!?)
私の必死の(しかし無言の)抗議の眼差しは虚空を切り裂き、誰も異論を唱えなかった(唱えられなかった)ため、私たちのバンド名は正式に『KANADE-ZAKURA』に決定してしまった。
……でもまあ、いいか。
女子高生が作った趣味のバンドだ。
人前で演奏する機会など巡っては来ないだろう。
* * *
「あとは、メンバーも増やさないとな。ボーカルとベースは最低でも欲しい。私の知り合いで、ハコに出入りしてる奴らに声かけてみるか?」
金剛寺さんのその提案に、私は箸をピタリと止めた。
ライブハウスに出入りしている知り合い。
それはつまり、金剛寺さんと同じように「プロの現場」を知っている、本物のバンドマンたちということだ。
(……終わった)
私の脳内で、再び最悪のシミュレーションが始まった。
タトゥーを入れたいかついベーシストと、金髪でピアスだらけのボーカリストが加入する。彼らは初回の練習で、私のたどたどしい演奏を一瞥し、冷たく言い放つ。
『おい、そこの陰キャ。テンポずれてんだよ』
『お前がKANADE-ZAKURAの「SAKURA」? ――ぷっ、その実力で自分の名前をバンド名に入れたの? 身の程知らずなガキね』
よく知らない、しかも圧倒的に実力が上の人間が入ってくれば、一番下手くそでコミュ障の私は、真っ先に居場所を失うだろう。
バンドからの追放が現実となってしまう。
「えー! やだやだ、しばらくは三人で良いじゃない!」
意外にも、声を上げたのは才川さんだった。
彼女は口を尖らせて、猛抗議している。
「なんでだよ。お前、バンド組むって言ってたろ」
「それはそうだけど……今はまだ、細川さんとの蜜月を楽しみたいの! 知らない人が入ってきたら、細川さんを取られちゃうかもしれないじゃない!」
才川さんの理由はひどく自分勝手(そして独占欲にまみれたもの)だったが、結論としては私の利害と完全に一致していた。
そうだ。
よく知らない人が増えるなんて、私にとっては苦痛以外の何物でもない。
(でも、金剛寺さんの言うことも正論だ。いずれメンバーは必要になる。それなら……)
知らない不良が来て私を追放するくらいなら。
――私が「知っている人」を先に引き入れて、味方を作ってしまえばいいのではないか。
心臓が、早鐘のように打ち始めた。
自分から意見を言うなんて、いつぶりだろう。
でも、ここで引けば、私は確実に魔王の城から放り出される。
「……あの」
絞り出すような、震える声だった。
しかし、そのかすかな音を拾い上げ、二人の視線がピタリと私に集中した。
「メンバー、心当たりが、あるんだけど」
「ええっ!?」
才川さんが、目を見開いて大げさな声を上げる。
「へぇー」
金剛寺さんは、面白そうなものを見るように目を細め、軽く相槌を打った。
(……よかった。無視されなかった)
私はホッと安堵の息を吐き、膝の上でギュッと拳を握りしめた。
頭の中に浮かぶのは、昔からずっと私の隣にいてくれた、ただ一人の理解者の顔。
「……凛ちゃんっていうの。私の、幼馴染」
教室の喧騒の中で、私が紡いだその小さな決意の言葉は、確かな熱を帯びて二人の耳に届いた。
この日、KANADE-ZAKURAに、新たな運命の歯車が噛み合った音がした。




