第48話 不死鳥の如く
広すぎる。
無人の巨大アリーナを見渡した時の感想は、その一言に尽きた。
もしも私が、単なる音楽ファンとしてこの施設にライブを見に来た観客の一人であったなら。あるいは、社会科見学で訪れただけの学生であったなら。
ただ「すごいなー」「大きいなー」と無邪気に感動し、これほどの恐怖に怯えることはなかっただろう。
しかし、私は今日、ここに演奏しに来たのだ。
自分の声を、ギターの音を、この広大な空間の最後尾まで届けなければならない。数万人の観客という「他者」の視線を、このステージという一点に浴びる。
その前提に立ってステージから客席を見下ろした時、私の脳の処理能力は限界を超えた。
今はまだ、客席には誰もいない。
だが、本番になれば、あの数え切れないほどの座席のすべてに人間が座るのだ。
3万人。
一つの街が形成されるほどの数の人間が、熱狂し、腕を振り上げ、こちらを見る。
その想像を絶するプレッシャーを前にして――
私の心は完全に折れ、細かく砕け散った。
ここで優勝して、将来のニート生活のための貯金を増やす。
そんな浅ましい皮算用は、圧倒的なスケールの暴力の前で霧散してしまった。
* * *
楽屋。
長机。
パイプ椅子。
沈黙。
私は壁際のパイプ椅子に深く腰掛け、一切の感情を排した無表情のまま、真っ白な灰になっていた。
コンコン。
楽屋のドアがノックされた。
入ってきたのは、見知った顔だった。
今年の春、遠征先のライブで対バンし、競い合った実力派ガールズバンド『燐光エピゴーネン』の面々だ。
ボーカル&ギターの堂本燈さん。
リードギターの戌井紗凪さん。
ベースの潮崎湊さん。
そして、私と最も深い因縁のある小動物。
ピンクのツインテールがトレードマークのドラム、矢野くるみさん。
「わあ、燈さん! みんなも!」
「奏ちゃん、久しぶりね。本戦、お互い残れてよかったわ」
才川さんや凛ちゃんたちが立ち上がり、楽しげに再会の挨拶を交わしている。
彼女たちも、あの過酷な審査を突破し、この最終ステージに勝ち上がってきていたのだ。
自分の不安とプレッシャーにばかり気を取られ、他の出演バンドの顔ぶれを確認することすら怠っていた私は、この時になって初めてその事実を知った。
陽キャたちがキラキラとしたオーラを放ちながら親睦を深めている中、ふと視線をやると、矢野さんだけが輪に入れず、扉の付近で無言で立ち尽くしていた。
私と同じだ。
極度の人見知りゆえに、自分から話の輪に飛び込めない。
そんな彼女の姿に強烈な親近感が湧いたが、だからといって私から歩み寄ってどうにかしてやれるわけもない。私自身も、お喋りが得意ではなく、パイプ椅子と同化するように一人で座っているだけなのだから。
すると。
「お久しぶりね。桜ちゃん」
ふわりと、いい匂いがした。
いつの間にか輪を抜け出した堂本さんが、私のすぐ横のパイプ椅子に腰を下ろしていた。
桜、ちゃん。
下の名前での呼びかけ。
心の距離が縮まったような、嬉しいような、それでいて少しくすぐったいような、不思議な心地になる。
堂本さんは、私の右腕に自分の腕を絡め、身体を密着させてきた。
「いよいよ本番。さすがに、緊張するわね」
「……」
私はこわばった顔のまま、無言でコクッと頷いて肯定した。
「あーっ! 燈さんだけずるいわ!」
不意に、反対側から声が飛んできた。
才川さんだ。
彼女は早足でこちらに向かってくると、私の左側の空いた椅子にドスンと座り、堂本さんに対抗するように私の左腕をギュッと抱き込んだ。
「細川さんは、うちのボーカルなんですからね!」
「ふふっ。減るもんじゃないでしょ? 少し借りてるだけよ」
右に、優しくて明るい美少女、堂本燈さん。
左に、圧倒的なカリスマを持つ美少女、才川さん。
私はパイプ椅子の上で、二人の美少女に両腕をホールドされるという、漫画のような「両手に花」状態に陥ってしまった。
そして。
「……うぅ〜〜〜〜!」
扉の隅。
ぼっち状態だったピンクのツインテールが、こちらを睨んでいた。
堂本さんを取られたからか、あるいは私がちやほやされているのが気に食わないのか。矢野さんは、野生動物が威嚇するような声を出して、憎々しげに私を睨みつけている。
(……ふふ)
私は、自分が酷く「単純な生き物」であることを自覚した。
先ほどまでの巨大アリーナに対する恐怖や絶望が、嘘のように引いていく。
代わりに胸の奥から湧き上がってきたのは、謎の優越感だった。
両隣に美人。
私を睨みつけて嫉妬に狂う、ちび助。
まるで、世界の中心に座る王様になった気分だ。
――安心して慢心する。
矢野さんが、我慢できないといった様子でトコトコとこちらへ近づいてきた。
「あ、あんたなんかには……絶対に負けないんだからっ!」
精一杯の虚勢を張るように、彼女は私に向かって指を突きつけた。
そんな恫喝、王様である私には通じない。
私はパイプ椅子に深くふんぞり返ったまま、余裕たっぷりの、それでいてひどく傲慢な表情を作って言い返した。
「黙って見ていなさい。優勝するのは、この私よ」
言ってしまった。
ニート貯金という切実な理由からではない。
ただ、その場のノリで、空気を読めない私は傲慢な宣戦布告を――。
(……言ってしまった)
私の両隣にいる二人が、それに嬉しそうに反応する。
「すごい自信ね。それでこそ桜ちゃんよ」
「その意気よ、細川さん! 私たちで、この会場の全員を圧倒してやりましょう!」
堂本さんと才川さんに両脇から持ち上げられ、私は引っ込みがつかなくなってしまった。
ふと前を見ると。
マネージャー兼撮影係として私たちについてきている吉良さんが、ビデオカメラをしっかりと構え、私のドヤ顔と大見得を切った瞬間を高画質で記録していた。
後でドキュメンタリー映像でも制作するのだろう。
もう、後には引けない。
ここで縮こまって無様な演奏などすれば、一生の恥だ。
私は自ら退路を断ち、一度灰になった野心を、不死鳥の如く燃え上がらせた。
優勝するしかない。
* * *
そして、私たちの出番がやってきた。
インカムをつけたスタッフの合図で、暗転したステージへと続く階段を上る。
定位置につき、自分のギターを構えた。
暗闇の中、客席を見渡す。
そこには、朝見た時の無機質なコンクリートの海はなかった。
観客たちが手首につけたLEDのライトや、ペンライトの光。それが広大なアリーナを埋め尽くし、まるで宇宙空間に広がる果てしない星空のように瞬いていた。
綺麗だ。
素直にそう思った。
不思議なほど、心は落ち着いていた。
あれほど怯えていたプレッシャーは嘘のように消え去り、澄み切った水面のように静かだった。
ピンスポットが、ステージ中央の才川さんを撃ち抜く。
彼女はマイクスタンドを握り、3万人の星空に向かって、堂々としたMCを放った。
「――聴いてください。KANADE-ZAKURAで、『星座の地図』」
直後。
静寂を切り裂いて、才川さんのギターソロが始まった。
巨大なアリーナの空気をビリビリと震わせる、圧倒的な音圧。
それでいて繊細で、正確無比なピッキング。
相変わらず、惚れ惚れするほど美しい演奏だ。
私は彼女の音を聴くのが好きだ。
その音がある限り、私はどこまでも高く飛べる気がする。
才川さんの音に勇気づけられ、私の中でリズムが共鳴していく。
ベース、ドラム、キーボード。
全員の音が重なり合い、一つの巨大なうねりとなってアリーナを駆け巡る。
私は息を深く吸い込み。
マイクに向かって、声を放った。
その瞬間。
私は、3万人が見上げるこの巨大な星空のすべてを、完全に支配した。




