第46話 青春の終わり
「……あの、細川さん。ちょっといいかな?」
文化祭の喧騒から少し離れた、お店の裏側。
クラスの出し物である「たこ焼き屋」の食材が見事に底をつき、油まみれの鉄板の火を落として一息ついていた私の背中に、控えめな声がかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは他のクラスの女子生徒。この学校の軽音部の部長を務める、朝日奈陽菜菜さんだった。
「……」
私は、無表情のまま彼女を見つめ返す。
「この後、15時から、体育館で私たちのライブがあるの。高校最後のステージだから……ぜひ、あなたにも来てほしくて……」
少しだけ緊張したように、それでも真っ直ぐに私の目を見て、朝比奈さんはそう言った。
「……わかった。見に行くわ」
私は短く答え、こくりと頷いた。
ここで「興味がありません」とか「用事があるので」と断れるわけがない。
そもそも私には、人からの誘いを角が立たないように断るという高等なコミュニケーションスキルは備わっていないのだ。
流されるままに了承する。
いつものことだった。
朝比奈さんとはクラスが違う。
しかし、去年の文化祭で私たちがライブを行う前に、少し言葉を交わして以来、なぜか彼女とは話す機会が多い。
といっても、それは極端に社交性の乏しい私を基準にして「多い」というだけで、廊下ですれ違った時に彼女の方から声をかけてきたり、たまに軽音部の近況の話を少しだけ振ってくれたりする程度だ。
それでも、自分から誰かに話しかけることなど絶対にない私にとっては、特筆すべき交流だった。
その細いつながりのおかげか、私は学校の軽音部の動向について、それなりに詳しかった。
私たちが今、本戦に向けて準備を進めている10代限定の国内最大級ロックフェス『NEO GENESIS ROCK FES』(通称:ネオジェネ)。
実は、朝比奈さん率いる軽音部のバンドも、そのフェスにエントリーしていたらしい。
一次のデモ音源審査は見事に突破したものの、彼女たちは二次のSNS/WEB一般投票審査で落ちてしまったそうだ。
二次審査は、純粋な音楽の技術だけでなく、ネット上での知名度やファン層の厚さがものをいう過酷なシステムだ。
すでに動画配信等で一定のファンを獲得していた私たちとは違い、普通の高校生活を送りながら地道に活動していた彼女たちにとって、その壁はあまりにも高かった。
票を伸ばせず、涙を呑んだと聞いた。
彼女はとても残念がっていた。
だからこそ、今日の文化祭のステージで、そのネオジェネのために作った曲を演奏し、自分たちの気持ちに決着をつけたいのだろう。
一人でも多くの人に、自分たちの集大成の音を聞いてもらいたい。
だから、普段は接点の少ない、他流試合をしているような立場の私にも、わざわざ声をかけに来てくれたのだ。
「ありがとう。待ってるね」
朝比奈さんは、私の返事を聞いて少しだけほっとしたように微笑むと、出番の準備のために足早に去っていった。
* * *
彼女の背中を見送った直後。
「細川さん、お疲れ様!」
「おーい、桜。お前の分も、取っといたぞ」
接客担当として大立ち回りを演じ、見事にたこ焼きを売り切った才川さんと金剛寺さんが、意気揚々と裏方スペースにやってきた。
金剛寺さんの手には、舟皿に乗せられた大玉のたこ焼きが三つ。
どうやら、完売する直前に、私たちのまかない用として確保しておいてくれたみたいだ。
「朝比奈さんたち、今年もライブするのね。私たちも一緒に見に行きましょう」
才川さんが、ニコニコと笑いながら言う。
彼女もどこからか情報を仕入れていたようだ。
「そうだな。とりあえず出し物を見て回って、買い食いしてから体育館に行くか」
金剛寺さんが同意し、舟皿を差し出した。
私は無言で爪楊枝を受け取る。
外はカリッと、中はトロッと。自分で焼いたたこ焼きを口に放り込む。熱々の生地とソースの味が、疲れた体に染み渡る。
食事を終え、身だしなみを軽く整える。
そこからは、三人で校内を歩いた。
チュロスを買う。
お化け屋敷の列を眺める。
射的で遊ぶ金剛寺さんを見る。
才川さんに腕を引かれる。
喧騒。
笑い声。
すれ違う生徒たちの熱気。
あっという間に、時間は過ぎていった。
* * *
15時。
体育館。
床のワックスと、少し埃っぽい匂いが混ざる独特の空気。
ステージには、簡易的な照明と、使い込まれたアンプが並んでいる。
暗転。
そして、朝比奈さんたち軽音部の演奏が始まった。
ドラムのカウント。
ギターのストローク。
ベースのルート弾き。
体育館の粗悪な音響設備を通した音は、決して洗練されたものではない。
音が割れ、反響し、時折ハウリングが耳を突く。
技術的に見れば、彼女たちの演奏には粗がある。
リズムがわずかにもたついたり、ボーカルのピッチが不安定になったりする瞬間もある。
ネオジェネの三次審査で私たちが戦った、あの研ぎ澄まされたライバルたちと比べれば、圧倒的な迫力やプロ顔負けのスキルがあるわけではない。
それでも。
私は、ステージから目が離せなかった。
彼女たちが鳴らしているのは、まぎれもない「青春の終わり」だった。
放課後の音楽室。
窓から差し込む夕日。
合わない音にイライラした日。
初めて曲が通った時の喜び。
ネオジェネに落ちて流した涙。
三年間という限られた時間を削り、ぶつかり合い、不器用に積み上げてきた努力の結晶が、今、この狭い体育館で爆発している。
朝比奈さんがマイクを両手で握り締め、声を枯らすようにして歌っている。
その横顔は、痛いほどに真っ直ぐで、残酷なほどに眩しかった。
――ああ。
私はいつもの無表情のまま、体育館の冷たい壁際に寄りかかり、ただひたすらに心を震わせていた。
技術の高さと迫力だけが、音楽のすべてではないのだ。
どれだけ正確なピッチで歌えるか、どれだけ速くギターが弾けるか。
それは確かに、大きなステージに立つための重要な武器になる。
しかし、人の心の奥底を打ち抜くのは、結局のところ、その音に乗せられた「熱」なのだ。
彼女たちの一生懸命を、不器用な情熱を、きちんと受け止めよう。
私は瞬きも忘れ、全身の毛穴を開くような感覚で、その音を浴びていた。
最後のサビ。
全員の音が一つに重なり、体育館の屋根を突き破るように響き渡る。
そして、ジャン!
という力強い一音と共に、彼女たちの高校生活最後の曲が終わった。
沈黙。
直後、体育館を揺るがすような割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
朝比奈さんは肩で息をしながら、少しだけ泣きそうな顔をして、それでも最高の笑顔で客席に向かって深くお辞儀をした。
私も、体の前でゆっくりと、強く、拍手を送った。
手のひらが痛くなるまで、何度も叩いた。
* * *
「良かったわねー、朝比奈さんたち」
「ああ、やるじゃねーか。なんか、ちょっとグッときちまったぜ」
ライブが終わり、生徒たちが三々五々に散っていく中。
教室へと向かう渡り廊下を歩きながら、才川さんと金剛寺さんが素直な称賛を口にしていた。
彼女たちもまた、あのステージの熱をしっかりと受け取っていたようだ。
「……うん」
私は短く同意した。
軽音部の彼女たちは、今日この場所で一つの区切りをつけた。
敗北を受け入れ、気持ちに決着をつけ、青春のステージを美しく降りていった。
けれど。
私たちの夏は、まだ終わっていない。
私たちは、彼女たちが立てなかった場所へ行かなければならない。
このあと、11月には、国内最大級のロックフェス『NEO GENESIS ROCK FES』のファイナルステージが待っているのだ。
空を見上げると、秋のうろこ雲が夕日に染まっていた。
私は拳を強く握り締め――
来るべき巨大なステージへ向けて、静かに決意の炎を燃やした。




