第41話 終戦、そして賠償金の支払い。
(細川桜の視点)
すべての機材の搬出を終え、私たちは控室で帰り支度を進めていた。
狭い部屋に充満していた本番前のヒリヒリとした緊張感は、とうの昔に霧散している。才川さんも、金剛寺さんも、凛ちゃんも、小清水さんも、一つの大きなステージを完璧にやり切ったという、晴れやかで満足げな顔をしていた。
そう、演奏とは、己の内に秘めた感情のすべてを音に託し、外界へとぶつける行為だ。
内に溜まった熱も、怒りも、喜びも、すべてを出し切ってしまえば、後は嘘のようにすっきりとする。
かくいう私も例外ではなかった。
ステージに上がる前、私の胸の中で猛り狂っていた「負けたくない」「実力を見せつけてやる」という異様な闘志は、最後の一音とともに完全に燃焼し尽くされ、今や見る影もなかった。
感情の波が引いていく。
嵐が過ぎ去った後の海のように、私の心はただひたすらに静まり返り、冷え切っていた。
そうなると、どうなるか。
冷静になってくるのだ。
客観的な視点が戻り、頭が冷えてくると、今度は入れ替わるように激しい心配と後悔が胸の奥から押し寄せてきた。
(……マズい。非常に、マズい)
私はギターケースのジッパーを上げながら、内心で冷や汗をかいていた。
私は今日、一度ならず二度までも、対バン相手のメンバーに向かって喧嘩腰で暴言を吐いている。「ぶっ潰す」だの「実力の違いを見せてあげる」だの、ヤンキー漫画の噛ませ犬のようなセリフを連発してしまったのだ。
向こうが喧嘩を売ってきたとはいえ、争い事など穏便に避けるべきだった。
冷静に考えてみれば、『燐光エピゴーネン』の中で問題を起こして突っかかってきたのは、あのピンク髪のドラムの子、たった一人だけだ。
しかも聞けば、あの子はこの春からようやく高校一年生になる年下だというではないか。
対して、私はこの春から高校三年生になる。
立派な大人のお姉さんなのだ。
それなのに、あの程度の子供の幼稚な挑発にマジギレして、大人気なく張り合ってしまった。
年上として、華麗にスルーする余裕を持つべきだったのではないか。
猛烈な後悔が、喉元までせり上がってくる。
なにしろ、あの問題児以外は、みんな信じられないくらい良い人たちなのだ。
才川さんたちと笑顔で交流し、私たちの演奏を舞台袖で真剣に聴いてくれていた。
今日のこの超満員のライブだって、エピゴーネンの彼女たちが地元で泥水すすりながら築き上げてきた信頼と実績があってこそ成り立つものだった。
私は、もっと彼女たちに敬意を払うべきだった。
演奏が終わって冷静になってからというもの、舞台袖からこの控室に戻ってくるまで、私の脳内はずっとこの後悔のループに支配されっぱなしだった。
そもそも、私は喧嘩が得意なタイプでは決してない。
むしろ争い事は大の苦手だし、バンドメンバー以外のクラスメイトとはまともに挨拶すら交わせない、筋金入りのコミュ障なのだ。
そんな日陰者の人間が、突然変に調子に乗ってイキり散らし、一人で勝手にお世話になっている相手と揉めている。
(……どうしよう。きっと、この後、相手のバンドのリーダーとかが、私のことを〆に来るわ)
向こうにだって、地元をまとめる顔役としてのメンツがある。
私みたいな他所から来た正体不明の雑魚キャラに、後輩を泣かされ、イキった口をきかれたまま黙っているはずがない。きっと裏に呼び出されて、鉄拳制裁の一つでも食らわされるに違いない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あなたはクビよ。細川さん」
無機質な声で、才川さんが私に告げる。
「……理由を、お聞きしても?」
「空気が読めないからよ。相手のバンドを怒らせて、私たちまで出禁になったわ。さようなら」
「……わかりました。リーダーの指示に従います」
ここは異世界――私は冒険者パーティから追放された。
失意の中、雨の降る薄暗い路地裏を歩いていると、すれ違いざまに道を歩いていた堂本さんと肩をぶつけてしまう。
「ちょっと、そこのあなた。なにぶつかってるのよ。生意気よ。歯を食いしばりなさい」
「別に、構いませんよ。それで、あなたの気が済むのでしたら……」
ドゴォ!!
私は、抵抗することなく顔面をぶん殴られ、泥水の中に沈んでいく。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
クビになった挙句、見知らぬチンピラに殴られるという謎のファンタジー妄想を繰り広げて震えていると、コンコンとノックの音が鳴った。
『燐光エピゴーネン』の人たちが、別れの挨拶にやってきたのだ。
(……来た。きっと、私のことを殴りに来たんだ)
私は完全に死刑宣告を受けたような心持ちになり、直立不動で固まった。
向こうのメンバーと、こっちのメンバーが、「今日はありがとうございました!」「こちらこそ最高でした!」と楽しそうにおしゃべりをしている。
しかし、極度の恐怖と緊張でぼーっとしている私の耳には、その会話が水の中にいるようにくぐもって、よく聞き取れなかった。
やがて、何やらみんなの注目が、私の一点に集まっていることに気がついた。
話題にする価値のない私という底辺の存在について、何やら話していたみたいだ。
(……マズい。ぼーっとしていて、会話の文脈を完全に聞き逃した)
焦点の合わない視線を戻すと、向こうのボーカル&ギターである堂本燈さんが、私の目の前に立って、何かの返事を待っていた。
必死に記憶を遡る。
(たしか……「お別れに……○○をしてもいいかしら?」とか、聞かれた気がする)
何をする気なんだろう。
いや、考えるまでもない。
きっと、生意気な私に対する「鉄拳制裁」の許可を求めているのだ。
私は腹を括り、覚悟を決めた。
今日はせっかくの友好的な対バンだったのに、私がイキったせいで足を引っ張ってしまった。賠償金代わりの拳なら、甘んじて受け入れよう。
それに、相手も女の子だ。
パンチを一発食らったところで、そこまで酷い怪我にはなるまい。
「別に、構いませんよ」
私が無表情のまま、堂々とそう答えると。
視界の端で、才川さんが「えっ!? ほ、細川さん!?」と滅茶苦茶に慌てふためいているのが見えた。
私は静かに目を閉じた。
さあ、来い。
しかし、飛んでくるはずの鉄拳の衝撃はいつまで経っても訪れず。
代わりに私の頬に触れたのは、硬い拳ではなく、温かく柔らかな堂本さんの唇だった。
ちゅっ、と。
可愛らしい音が耳元で鳴った。
……え?
私は何故か、初対面の堂本さんに頬へキスされたらしい。
目を開けると、堂本さんは顔を真っ赤にして「えへへ、ありがとう!」と嬉しそうに笑っている。
意味がわからないわ。
私は完全にキャパシティを超え、思考停止に陥った。
まったく状況が理解できないまま、私の初めての遠征ライブは、こうして謎の幕引きを迎えたのだった。
* * *
(矢野くるみの視点)
私たちのライブは大成功に終わり、すべてを片付けた後。
燈さんたちが「KANADE-ZAKURAに最後のお別れの挨拶に行く」というので、私もその後ろに金魚のフンのように引っ付いていった。
細川桜の生意気な態度は相変わらず気に入らないし、ムカつく女だという評価に変わりはない。
だが、あいつの鳴らす音楽と、あの心を支配するような凄まじい歌声だけは、ドラマーとして認めてやっている。
悔しいけれど、あれは本物だ。
控室に入ると、燈さんや紗凪さんが、相手の演奏を手放しで褒め称えていた。
向こうの才川さんや金剛寺さんも、私たちのライブを「最高にグルーヴしてました」と褒め返してくれている。
いい雰囲気だ。
なんだかんだで、終わりよければすべてよし。
平和な対バンとして終わる。
そう思っていた、その時だった。
ずっと無言で突っ立っている細川桜の前に立った燈さんが、何を血迷ったのか、突然とち狂った爆弾発言を投下したのだ。
「私、細川さんの、大ファンになっちゃった! ……お別れのハグと、キスをしてもいいかしら?」
は!?
私は思わず目玉が飛び出そうになった。
いくら燈さんがスキンシップ激しめの帰国子女ノリだとはいえ、初対面の相手、しかもあんな無表情でとっつきにくい陰キャ女に対して――キス!?
いや、まあでも……。
当然、あの細川のことだ。
「お断りします」と冷たくあしらうだろう。
そう思っていたのに。
「別に、構いませんよ」
細川桜は、相変わらずの無表情のまま、なんの躊躇いもなくその要求を受け入れたのだ。
(ちょっと、馬鹿なの!? なんで受け入れるのよ! 断りなさいよ!!)
私の必死の心の声は、誰にも届くことはない。
向こうのリーダーの才川さんが「ええっ!?」とドン引きして慌てている中、燈さんは嬉しそうに細川に抱きつき、その白い頬にチュッと音を立てて口づけをした。
「…………ッ!!」
私は、その光景を特等席で見せつけられ、奥歯をギリリと噛み砕かんばかりに食いしばった。
(燈さんのファーストキスが……っ! あんな、得体の知れない生意気な奴に奪われるなんてっ!)
※注釈:正確には頬へのキスであり、ファーストキスと呼ぶには語弊があるが、私にとっては大問題なのだ。
せっかく演奏を聴いて感動し、「まあ許してやるか」と少しだけ歩み寄ろうとしていた私の心は、完全に打ち砕かれた。
細川桜。
やっぱりあいつは、絶対に許せない。
私のあいつに対する怒りの炎は、灰の中から不死鳥のように、再びごうごうと燃え上がったのだった。




