第39話 支配者の威厳
(細川桜の視点)
薄暗いライブハウス。
まばゆい照明が私たちの立つステージを照らし出し、隣では才川さんが、花が咲くような明るい声で観客に自己紹介と挨拶をしている。
私は定位置に立ち、ギターのネックを握りしめたまま、静かに心を落ち着けてそれを聞いていた。
視線を上げて観客席を見渡す。
フロアの密度は、先ほどの『燐光エピゴーネン』のステージの時と比べると、明らかに目減りしていた。
この場所は彼女たちのホームであり、観客の多くはエピゴーネンをお目当てに来ている。だから、彼女たちの出番が終わり、知らない遠方のバンドが出てきたとなれば、そのまま帰ってしまう人が一定数いるのは当然のことだった。
完全なるアウェー。
しかし、私の心は不思議なほどに落ち着いていた。これは想定内の出来事だ。むしろ、今残ってくれている観客たちの心をどうやってこちらに振り向かせるか、思考は極めてクリアに回転していた。
やがて、才川さんのMCが終了する。
短い静寂。
そして、私たちの演奏が始まる。
一曲目は、私たちが新たに仕上げてきた新曲だ。
曲の入りは、才川さんの超絶技巧によるギターソロから始まる。
今の時代の音楽のセオリーは、イントロを極限まで削り、曲の頭からいきなりボーカルが歌い出すスタイルが主流だ。現代人は忙しく、最初の数秒で心を掴めなければすぐにスキップされてしまうからだ。
しかし、私たちは敢えてそのセオリーに逆行し、長いギターソロを初っ端に置いている。文化祭でこのスタイルで演奏した時、フロアを制圧する絶対的な手応えを感じて以来、私たちはこれでいこうと決めたのだ。
なぜなら、ガールズバンド『KANADE-ZAKURA』の最大戦力は、間違いなく才川さんのギターだからだ。
少なくとも、私はそう確信している。
だからこそ、私たちの最強の矛を、挨拶代わりに出鼻にぶつける。
そういう戦略。
そして、その戦略は完璧に当たっていた。
才川さんの指がフレットを乱舞し、エモーショナルで暴力的な音の塊がフロアに放たれる。
その瞬間、ドリンクカウンターへ向かおうとしていた客や、スマホをいじり始めていた客たちの動きが、ピタリと止まった。
観客たちの空気が、一瞬にしてピンと引き締まるのを肌で感じる。
私の戦意も、かつてないほどに高揚していた。
(絶対に、負けない。――さあ、ひれ伏しなさい)
胸の奥底で、暗い炎のような思いが満ちていく。
今日の才川さんは絶好調だ。
恐ろしいほどの熱量を持った彼女のギターソロが頂点に達した瞬間、そこに金剛寺さんの地鳴りのようなドラム、凛ちゃんの重厚なベース、小清水さんの彩り豊かなキーボードが一斉にのしかかる。
そして、私のボーカルが重なった。
闘志がある。
エピゴーネンの演奏に負けたくない。
あのピンク髪の矢野さんに、圧倒的な実力を見せつける。
だが、それは決して、ステージの上で私だけが独りよがりに叫び、暴れることではない。
私は極限まで心を研ぎ澄ませて、みんなの音を聴いていた。
いや、耳で聴くという生易しいものではない。足の裏から、肌から、鼓膜から、メンバーの放つすべての音を振動として受け止めていたといった方が正しい。
私は、その強大な音のうねりに合わせて、自分の身体から発する声の波長を完璧に調和させていく。
メンバーの音を全身で感じ取り、その巨大な質量に自分を委ね、そして――
ボーカルとして、その先頭に立って力強く引っ張っていくのだ。
私の不器用で直線的な声が、強烈な引力となって、四人の天才たちの音を一つに束ね上げる。
歌う。
ただ、無心に歌う。
いつしか、私の声は、ライブハウスという真っ黒な宇宙空間の隅々にまで広がっていくような感覚に陥っていた。
その声は空間を満たし、フロアにいる人たちを、観客の感情を、鼓動を、完全に支配していく。
ステージ袖で見ているであろうエピゴーネンのメンバーたちも、もはや身じろぎ一つできないはずだ。
この空間は。
この瞬間、完全に私たち『KANADE-ZAKURA』のものとなった。
最後の一音が鳴り響き、長い残響が静寂へと溶けていく。
割れんばかりの歓声と拍手が、遅れてフロアから爆発した。
汗に濡れた前髪の隙間から、熱狂する観客たちを見下ろす。
きっと、この遠征は成功したのだと思う。
私たちは、すべてを出し切り、このライブを完璧にやり切った。
* * *
【番外編】 狂犬の遠吠え、そして支配者の威厳
(矢野くるみの視点)
気に入らなかった。
私は中学の三年間、学校という集団生活に全く馴染めなかった。教室の空気はいつだって息苦しく、同級生たちのくだらないおしゃべりはノイズでしかなかった。
この春から高校に進学することになるが、そこでも上手くやれるとは到底思えない。
でも、それでよかった。
私には、学校なんかよりもずっと大切で、輝かしい居場所がある。
私は、この地方都市で絶大な人気を誇るガールズバンド『燐光エピゴーネン』のメンバーだ。
一年前。
暗い顔で近所のスタジオに出入りし、一人でドラムを叩きまくっていた私に声をかけてくれたのが、ボーカル&ギターの堂本燈さんだった。
彼女の太陽のような明るさと、バンドが鳴らす強烈な音に、私は救われたのだ。
燈さん、紗凪さん、湊さん。この三人と一緒に音を鳴らしている時だけ、私は自分が生きていると実感できた。
だからこそ、私にとって「対バン」というイベントは何とも居心地の悪いものだった。
バンド同士の平和的な交流?
ふざけないでほしい。
よそ者と仲良くなんかしたくない。
私たちの音楽と絆の間に、土足で踏み込んでこないでほしい。
そんな鬱屈とした思いを抱えていた。
しかも、今日の相手はなんだ。
なんでも、ネットで流行りの曲を弾いて知名度を上げてきただけの、ポッと出の連中だという。
(そんなまがい物と、なんで私たちが仲良くしなきゃいけないのよ)
苛立ちは募るばかりだった。
燈さんたちが愛想よく振る舞おうとしているのも気に食わない。私は一人で、相手の控室へと敵情視察に向かうことにした。
コンクリート打ちっぱなしの薄暗い廊下。
相手の楽屋の前まで来ると、ドアの向こうからエレキギターの生音がポロポロと漏れ聞こえてきた。
立ち止まる。
耳を澄ます。
(……ふーん。ちょっとはやるようだけど)
悪くはない。
だが、うちの天才リードギターである戌井さんに比べれば、音の構築もフレーズの引き出しも浅い。手癖で弾いているだけの、中身のない薄っぺらい音だ。
(こいつが、ネットで騒がれている超絶ギターテクのある『才川』? なんだ、噂ほどでもないじゃない)
私は鼻で笑い、完全に相手を見下した。
ガチャリ。
私は躊躇いなく、ドアノブを回して楽屋を開け放った。
中にいたのは、私が想像していたような「いけすかないネットの有名人」のオーラなど欠片もない、弱そうで地味な二人の女だった。一人は怯えたようにパイプ椅子で丸まり、もう一人はギターを抱えたまま、無表情でこちらを見ている。
私は腕を組み、ドアの枠によりかかった。
「……あんたが、今日の対戦相手?」
威圧的に問い詰める。
相手の顔に焦りが浮かぶのを期待して。
しかし、ギターを持った女――
才川は、表情を一切崩さずに答えた。
「……いえ、違います」
(えっ? うそ! どうしよう、間違えちゃった……)
私は戸惑い、慌ててドアの張り紙を確認した。
――あれ?
間違ってない。
ここはあいつらの楽屋で、目の前にいるのはギターを持っている女だ。
つまり、この女が「才川」で間違いない。
……こいつ。
息をするように嘘をつきやがった。
初対面なのをいいことに、とぼけて私をからかったのだ。
その事実を理解した瞬間、私の頭の中で、何かがブツンと音を立ててちぎれた。
「やっぱり、対戦相手なんじゃない! なんで嘘つくのよ。私をからかってるの!」
激高し、私は部屋に踏み込んだ。
怒りのままに、頭に浮かんだ罵詈雑言をありったけぶつけてやる。
動画で人気なのがムカつく。大したことない実力。紗凪さんには到底及ばない。再生数稼ぎのインチキバンド。
今日はあんたたちの化けの皮を剥いで、ギッタンギッタンにしてやる。
ばーか、ばーか!
息継ぎも忘れて捲し立てる。
私は徹底的に、身の程を教えてやったのだ。
私の剣幕に、横にいたもう一人の女は完全にすくみ上がり、ヒィッと悲鳴を上げている。
勝った。
私の勝ちだ。
そう確信して、黙り込む「才川」を見下ろした、その時だった。
「……ぶっ潰す」
ぽつり、と。
彼女の唇からこぼれたのは、たった一言だった。
しかし、それは異様な迫力を伴って、私の鼓膜を突き破った。
怒りでも、煽りでもない。
冷たく、清らかで、一切の感情が削ぎ落とされた声。
それはまるで、鋭利な氷の刃を喉元に突きつけられたかのような、私の魂そのものを深々と凍らせるような、純度の高い絶対的な「支配者」の響きだった。
「ひっ!」
気がつけば、私の口から情けない悲鳴が漏れていた。
足が震える。全身の毛穴が収縮し、冷や汗が噴き出す。
そして、股間に深刻な事態が……。
怖い。
この女、ヤバい。
私はそれ以上そこに立ち尽くしていることができず、弾かれたように背を向けると、惨めに廊下を駆け出していた。
走る。
誰もいないトイレに転がり込み、個室の鍵を乱暴に閉める。
「はぁっ、はあっ……!」
便座の蓋に座り込み、ガタガタと震える膝を抱え込んだ。
悔しさと、得体の知れない恐怖がごちゃ混ぜになって、視界が涙で滲む。
(許さない……)
爪が手のひらに食い込むほど、拳を強く握りしめる。
(絶対に許さない。才川……っ!)
私は狭い個室の中で、誰に届くわけでもない負け犬の遠吠えを、ただただ心の中で反響させていた。




