第38話 接敵と小競り合い
ガールズバンド『燐光エピゴーネン』の演奏が、すべて終了した。
重い防音扉の向こう側から、地鳴りのような拍手と歓声が響き渡ってくる。フロアの熱気は最高潮に達しており、その余韻が壁を伝って私たちの肌を震わせていた。
機材の入れ替えと、客のクールダウンのための転換時間。
約二十分のインターバルをおいて、次はいよいよ私たち『KANADE-ZAKURA』が演奏する番だ。
私たちは関係者エリアから控室に戻り、出番まで時間を潰すことにした。
狭い控室の空気は、先ほどの弛緩したそれとは明確に異なっている。
本番前の、研ぎ澄まされた刃のような緊張感。
金剛寺さんは無言でドラムスティックを回し、小清水さんは目を閉じて鍵盤の配置を指でなぞっている。
私はパイプ椅子に座り、ただ自分の心臓の音を聞いていた。
ドクン、ドクンと、不自然に早い脈拍。
先ほどエピゴーネンのステージを見たことで、私の中に明確に芽生えた「負けたくない」という感情。
それは、陰キャでマイナス思考の塊である私には不釣り合いなほど、熱く、重く、胃の奥で渦を巻いていた。
* * *
やがて、コンコンとノックの音がして、控室のドアが開いた。
「KANADE-ZAKURAの皆さん、そろそろ転換終わりますよー!」
顔を出したのは、エピゴーネンのボーカル・堂本燈さんだった。
直前までステージで暴れ回っていたせいで汗だくだというのに、ご丁寧に直々に私たちを呼びに来てくれたらしい。
後ろには、リーダーの潮崎さんたちの姿もある。
「わざわざ、ありがとうございます! 今行きますね!」
才川さんがすぐさま立ち上がり、眩しい笑顔で応対する。
事前に向こうの控室へ挨拶に行っていた才川さんと金剛寺さんは、すっかり彼女たちと打ち解けているようだった。
「さっきの曲、最高でした!」
「終わったら写真撮りましょうねー!」
などと、和やかに談笑を始めている。
私は勿論、その輪には入らない。
最後尾でギターケースを背負い、無表情で無言を貫いている。
他意はない。
相手を嫌っているわけでも、敵視しているわけでもない。
ただ単に、私が筋金入りのコミュ障だからだ。
陽キャ同士のキラキラとした会話に、気の利いた相槌など打てるはずがない。
ふと視線をずらすと。
堂本さんたちの背後に、向こうの問題児、矢野くるみさんが引っ付いてきているのが見えた。
私と吉良さんに喧嘩を売ってきた、ピンク髪のツインテール少女。
しかし彼女は、先輩たちが楽しそうに話しているその後ろで、何も話さずにじっと俯いている。
交流を深めに来たわけではなく、ただメンバーにくっついてきただけのようだ。
……ふむ。
あのピンクは、ムカつくガキではある。
私たちのことを「インチキバンド」と罵った相手だ。
しかし、陽キャたちの会話の輪に入れず、無言で後ろに引っ付いているだけのその姿に、私はどことなく奇妙な親近感を覚えてしまった。
彼女もまた、この明るい空間で上手く呼吸ができていない同類に見えたのだ。
不意に、堂本さんがちらっと私を見た。
「あ、えっと……」
無言でぽつんと立っている私に気を使って、何か声をかけようとしてくれたのだろう。
「…………」
私は無言のまま、すっと視線を逸らした。
申し訳ないが、突然話を振られても「あっ、はい……」としか返せない。堂本さんは少し困ったように苦笑いを浮かべた。
* * *
「それじゃあ、ステージに行きましょうか」
才川さんの声で、私たちは移動を開始した。
狭い廊下を一列になって歩く。才川さんたちが先頭で堂本さんたちと話しながら進み、私はいつも通り、一番後ろをトボトボと歩いていた。
廊下の途中で、エピゴーネンのメンバーたちが道を譲るように壁側に寄った。
その横を通り過ぎようとした、その時だった。
壁際に立っていた矢野くるみさんが、私の進行方向に向かって、すっと右足を出してきた。
あからさまな、足を引っかけようとする罠だった。
(……っ!)
私はそれが見えていたので、ピタッと歩みを止めた。
運動神経が抜群の人間であれば、出された足を華麗に飛び越えたりしてスタイリッシュに躱すのだろう。
しかし、運動神経ゼロの私にそんな回避能力はない。
ただ、物理的に立ち止まるのが精一杯だった。
(こけなくてよかった。セーフ)
心の中で密かに安堵の息を吐く。
ギターを背負ったまま転倒すれば、大惨事になっていたかもしれない。
立ち止まった私は、ちらりと矢野さんを見た。
彼女は足を引っ込めることもなく、腕を組んで意地悪な笑みを浮かべていた。
「……あんたのへぼいギター、楽しみにしてるわ。ここじゃあ、通用しないでしょうけどね」
小声で、しかしはっきりと、意地悪な言葉を投げかけてきた。
「…………」
私は迷った。
ここで、何か気の利いた返しをするべきなのだろうか。
しかし、この対バンの主目的は「平和的な交流」だ。
相手の挑発に乗って言い争いになれば、せっかく才川さんたちが築いた友好的な空気をぶち壊すことになる。
それは非常にマズい。
「こらっ! くるみちゃん! 失礼なこと言っちゃダメでしょ!」
私が黙っていると、前を歩いていた堂本さんが振り返り、即座に矢野さんを叱りつけた。そして、慌てて私に向かって頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 気を悪くさせてしまって。この子、ちょっと口が悪いだけで……!」
友好的で社交的な堂本さんの、迅速な不始末の謝罪。
私は、彼女に対してどう答えればいいのか分からなかった。
「気にしないでください」と笑って許せるほどの器量も、社交性も持ち合わせていない。
結果として、私は堂本さんからの謝罪に対して完全に無言を貫き、無視する形になってしまった。
その代わり。
私は矢野さんを真っ直ぐに見据え――
無表情のまま、はっきりと言い放った。
「実力の違いを見せてあげるから、よく見ておきなさい」
「なっ……!?」
矢野さんの顔が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。
「ちょっとあんた、調子に乗って……!」
怒り狂って掴みかかろうとする矢野さんを、リーダーの潮崎さんと堂本さんが「バカ、やめなさい!」「す、すみません!」と慌てて押さえ込む。
* * *
背後でエピゴーネンのメンバーたちがわちゃわちゃと揉めている音を聞き流しながら、私は再び歩き出し、ステージへと向かった。
……やってしまった。
いくら喧嘩を売られたとはいえ、完全に友好的な空気に泥を塗ってしまった。
堂本さんの謝罪も無視したし、最悪の対応だ。
ああ、これでついに追放される。
クビだ。
心臓が縮み上がり、冷や汗が背中を伝う。
「大丈夫、桜?」
「何かあったの、細川さん?」
前を歩いていた凛ちゃんと才川さんが異変に気付いたようで、ここまで引き返し、私に声をかけてきた。
私は、クビにされる恐怖を抱きながらも、嘘はつけないので正直に答えることにした。
「……喧嘩を売られたから、買っておいただけ」
無表情のまま、ぽつりと告げる。
怒られる。
空気を読めと罵倒される。
私は目を伏せた。
しかし。
「そう」
凛ちゃんは、フッと口角を上げた。
「対バンらしくなってきたわね。母さんから聞いていたような、ヒリヒリする感じ」
「ええ、上等じゃない」
才川さんも、私の肩をポンと叩き、不敵な笑みを浮かべた。
「向こうも本気でぶつかってきてるってことよ。私たちも、気合を入れていきましょう!」
……え。
二人とも、私を咎めることはなかった。
それどころか、私のやらかしを「バンドマンとしての闘志」と好意的に解釈し、逆にモチベーションを高めている。
(……よかった。クビにならずに済んだし、才川さんもやる気だ。これなら矢野さんに目にもの見せてあげれるわ)
私は心の中で深く、安堵していた。
宣言通り、『才川さんが』実力の違いを見せてくれるだろう。
重い防音扉を開ける。
熱気と、ざわめきと、暗闇。そして、私たちを待つフロアの観客たち。
私はギターのネックを強く握りしめた。
私たちの演奏が、今、始まる。




