第33話 チケットノルマ
(細川桜の視点)
学校が、冬休みに入った。
いつもの私なら、この期間は手放しで「嬉しい」とまではいかないにせよ、人間関係という終わりのない神経衰弱から解放され、自室のベッドで泥のように眠れる、多少は心の休まる期間だ。
しかし、今年の冬は違った。
私の心の中には、シベリアからの寒気団がダイレクトに居座っているかのように、常に冷たく重い木枯らしが吹き荒れていた。
理由は明白だ。
休みに入る少し前、私にとっての絶対的な光であり、同時に恐ろしい暴君でもある才川さんから、恐るべき『処刑宣告』が下されていたからだ。
それは、期末テストも終わり、午前授業だけで放課後になった日の昼下がりのことだった。
いつものように、私と才川さん、そして金剛寺さんの三人で机をくっつけてお弁当を食べていた時だ。
才川さんが、卵焼きを箸で突きながら、まるで「明日、駅前に新しいクレープ屋ができるらしいよ」とでも言うような軽いテンションで、こう言い放ったのだ。
「決めたわ。冬休みに、私たちで単独ライブをするわよ!」
唐突な宣言だった。
「おおっ! 良いじゃねーか、単独ライブ! 存分に暴れられるってわけだな、腕が鳴るぜ!」
金剛寺さんは、箸を置いてバンッと両手を叩き、何も考えずに嬉しそうに笑った。
相変わらず、ノリが良いというか、後先を考えない血の気の多い性格をしている。
一方の私はといえば。
「…………」
完全に思考が停止し、箸を持ったまま彫像のように固まっていた。
口下手で、とっさに自分の意見を言葉に変換できない私は、反対することも、疑問を投げかけることもできず、ただひたすらに無表情で沈黙を続けることしかできなかった。
そして、私のこの『無言の硬直』は、才川さんの中では都合よく「承諾した」というカテゴリに分類されるのが常だった。
表面上は静かな昼休み。
だが、私の心の中では、警報機がけたたましく鳴り響き、激しい動揺が渦巻いていた。
* * *
バンドが、ライブハウスの箱を借りて『単独ライブ』を行う。
それは論理的に考えて、ある一つの恐ろしいシステムが発動することを意味する。
すなわち、『チケットノルマ』の発生だ。
夏休みのライブのように、知り合いのバンドのイベントに「おまけ」として数十分だけ出させてもらうのとは訳が違う。
単独でイベントを打つということは、会場のレンタル代から音響、照明のスタッフの人件費まで、すべての経費を自分たちで賄わなければならないということだ。
当然、そのリスクはバンドメンバー一人一人に均等に割り振られる。
一人あたり十枚、あるいは二十枚のチケットを、自力で売り捌かなければならない。
自分で客を見つけ、収益を確保する。
それができなければ、自腹を切って不足分を補填することになる。
だが、問題は金だけではない。
万が一、自腹を切ってチケットの束を買い取ったとしても、当日、フロアに誰もいなければ、私たちは誰もいない空間に向かって一時間以上も演奏を続けることになる。それは大勢の人前で歌うという公開処刑よりも惨めな地獄だ。
ステージを成り立たせるためには、単純な収益(金)だけでなく、物理的な『集客(人間)』が絶対に求められる。
だからこそ、バンドマンたちは頭を下げて友達にチケットを買ってもらうのだ。
最悪、お金は自分が全額出すから、とにかくライブハウスに足を運んで賑やかし(サクラ)になってくれと懇願する。
(……私には、とても無理だ)
胃の奥が、ぎゅうっと冷たく縮み上がった。
友達など、ただの一人もいないのだ。
学校で口を利くのは、才川さんと金剛寺さんくらいのもの。親に頼むわけにもいかない(母は仕事で忙しいし、わざわざ休暇を取って貰うのは心苦しくて無理だ)。
道行く見知らぬ人に土下座して、「お金は払うから、私のライブを見に来てください」と頼み込む自分の姿を想像し、私は血の気が引くのを感じた。
それは、コミュ障の私にとって、清水の舞台から紐なしでダイブするのと同義である。
致死率百パーセントの無理難題だった。
(なんとか、破滅を回避する方策を考えなければ……)
* * *
しかし、私は結局何も言い出せないまま、暗澹たる気持ちで冬休みに突入してしまった。
不安だけが増大する日々。
そして不思議なことに、冬休みに入ってから今日に至るまで、才川さんの口から「チケットノルマ」という単語は一度も出てこなかったのだ。
静かな自室で、ギターの弦を磨きながら私は推測する。
才川さんなら、学校中、いや他校にまで及ぶ広大な人脈を持っている。
彼女にとってチケットを数十枚捌くなど、息を吐くより簡単な作業なのだろう。
「配るのなんて前日で十分でしょ」と高を括っているのかもしれない。
ありえる。
才川さんなら、十分にありえる。
(それとも……)
私の絶望的な交友関係の狭さを察して、コミュ障の私に気を遣い、私の分のノルマをこっそり免除して(あるいは肩代わりして)くれているのだろうか。
知らないうちに、才川さんが私の分のノルマをすでに捌いてくれている可能性は十分にある。
――だとしたら、あまりにも申し訳ない。
彼女にそこまで負担をかけて、私はのうのうとステージに立って歌うというのか。
自己嫌悪で胸が押し潰されそうになる。
そんなことを考えて一人でもやもやと苦しんでいるところに、インターホンの音が鳴った。
玄関を開けると、私の幼馴染――ベースの井上凛ちゃんと、キーボードの小清水涼音さんが立っていた。
大きな荷物を抱えた二人は、「おじゃましまーす」と慣れた様子で私の家へと上がり込んできた。
遠方に住んでいる二人は、ライブ出演など実際に集まる必要がある時は、私の家に泊まりに来るのが通例となっている。
我が家は母が仕事で家を空けているので、あまり干渉されないから都合が良い。
最初は小清水さんがパーソナルスペースに入ることに極度のストレスを感じていた私だが、彼女の適度な距離感と思いやりのおかげで、今ではすっかり慣れてしまっていた。
私の作ったご飯に味噌汁、それに母が買ってきたおかずで夕食を済ませ、三人で軽く機材の手入れや最終の音合わせ(無音)をして、並んで布団に入る。
修学旅行のような雰囲気の中で、私はずっと身構えていた。
いつ、どちらかの口から「そういえば、チケットのノルマ、全然売れてなくてさー」という愚痴がこぼれるかと。
しかし、消灯時間を過ぎ、二人の寝息が聞こえてきても、チケットノルマの話は一切出なかった。
(……おかしいな)
暗闇の中で天井を見つめながら、私の頭の中は疑問符でいっぱいだった。
全員が全員、チケットの販売に苦労していないなんてあり得るのだろうか。
それとも、地方組の二人は特別扱いで免除されているのか。
わからない。
何もわからないまま、私の心臓だけが不安で早鐘を打ち続けていた。
* * *
そして、疑問が解決しないまま、ついにライブ当日を迎えてしまった。
午後。
金剛寺さんの実家のライブハウスの、見慣れた薄暗い楽屋。
本番を一時間後に控え、私たちバンドメンバー五人は、それぞれ定位置に座って出番を待っていた。
金剛寺さんは念入りにストレッチをし、凛ちゃんと小清水さんは談笑しながら緊張をほぐしている。私は部屋の隅のパイプ椅子に座り、まるで借りてきた猫のように膝を抱えていた。
結局、チケットは一枚も売っていない。
私に割り当てられたノルマが何枚で、いくらの借金を背負うことになるのか、恐ろしくて最後まで聞くことができなかった。
「よし、みんな、準備はいいわね?」
ふいに、才川さんが立ち上がり、パンッと大きく手を叩いた。
その明るく通る声に、全員の視線が集中する。
「今日が私たち『KANADE-ZAKURA』の初めてのワンマンライブよ。今まで練習してきた成果を、全部あのステージに置いてきましょう!」
才川さんの言葉に、金剛寺さんが「おう!」と力強く応え、凛ちゃんと小清水さんも笑顔で頷く。
私も、わずかに顎を引いて同意を示した。
「それと」
才川さんは、にっこりと完璧な笑みを浮かべて、とんでもないことを言った。
「事前にグループトークでも言っておいた通り、今日のライブからは、きちんと『出演料』が出るわ。――みんな、プロのアーティストとして、気合を入れていきましょう!」
……ん?
私の思考回路が、ショートを起こした。
今、才川さんは何と言った?
出演料……?
ギャラが出る?
私が恐れていた、自腹を切って支払うチケットノルマ(マイナス)ではなく、私たちがお金を受け取る(プラス)ということか?
そんな馬鹿な。
高校生のインディーズバンドの初ワンマンで、赤字どころかギャラが出るなんて、あり得ない。ライブハウスの経営が破綻してしまう。
だが、才川さんの様子を見るに、冗談を言っているようには見えない。
凛ちゃんたちも「お小遣い、助かるわ」「良かったですね」などと暢気に喜んでいる。
どういうことだ。
事前にグループトークで言っていた?
(……あ)
私は、自分の間抜けな習性を思い出した。
ストーリーが頭に浮かぶと、妄想に世界に入り込んでしまう癖がある。そんな時、私はよく重要な連絡を聞き逃してしまうのだ。
才川さんの話の続きを聞くと、出演料のカラクリが分かった。
吉良さんが作ってくれた私たちの動画が、ネットでとんでもない再生数を叩き出し、そこから莫大な収益が生まれているという……。
才川さんはその収益を使って、今回の単独ライブの経費を全額賄い、さらには私たちに還元してくれているのだ。
チケットも、ネットでの事前告知だけで完売したに違いない。
私は、一人で勝手にチケットノルマの恐怖に怯え、勝手に絶望し、勝手に死にかけていたのだ。
(……なんて、馬鹿なんだろう)
穴があったら入りたい。
自分の救いようのない間抜けさに、私は両手で顔を覆った。
「ほら、細川さん――行くわよ!」
だが、私が一人で勝手に絶望している暇はなかった。
才川さんに腕を引かれ、私は重い防音扉の前に立たされる。
扉の向こう側からは、すでにフロアを埋め尽くした観客たちの、熱気とざわめきが地鳴りのように伝わってくる。
私たちの音楽を、私たちの音だけを聴きに来てくれた人たちが、あそこにいる。
私は、深く息を吸い込んだ。
握りしめたピックの感触が、冷え切っていた私の体温を少しずつ上昇させていく。
初めての、ワンマンライブ。
私の――私たちの新しい音楽が、今、幕を開けようとしていた。




