第30話 新たなるステージ
熱を帯びた文化祭の記憶も少しずつ遠ざかり、季節は確かな足音を立てて冬へと向かっていた。
校庭の木々は色を失い、乾いた冷たい風が落ち葉をアスファルトの上で転がしている。
あの一大イベントを終えた私たちのバンド『KANADE-ZAKURA』は、現在、いわゆる雌伏の時を過ごしていた。
(……そんな、大げさなものでもないか)
マフラーに顔をうずめながら、私は一人ごちる。
なにしろ、私たちはただの女子高生だ。放課後や休日に集まって、趣味で作っただけのバンド。
にもかかわらず、本格的なスタジオで収録を行い、オリジナル曲を音楽配信サイトに登録している時点で、すでにバンド活動は趣味の領域を大きく逸脱し、十分に凄いことをやっている。
だから、これ以上のだいそれた計画などあるわけがない。
マイペースに新曲を作りながら、時々ライブハウスで音合わせをする。
それで充分――。
半年前、教室の隅で息を潜めていただけの自分には、想像すらできなかったほど充実した、奇跡のような日々だ。
ある秋の終わりの休日。
今日はバンドの練習日だった。
私は黒いギターケースを背負って、金剛寺さんの実家であるライブハウスへと向かった。
重い防音扉。
地下へ続く、薄暗いコンクリートの階段。
「……お、おじゃま、します」
靴底が鳴る。
ひんやりとした空気。
長年の営業で壁に染みついた、独特のタバコと酒の匂い。
通い慣れた場所ではあるが、やはりこの階段を下りて扉を開ける瞬間は、酷く緊張する。
しかし、誰の付き添いもなく、一人で控室のドアまで辿り着けるようになっただけでも、私は確実に進化しているはずだ。
ノブを回し、控室に入る。
「あ、細川さん! おはよー!」
扉を開けた瞬間、才川さんが満面の笑みで飛びついてきて、私の右腕にぎゅっと自分の腕を絡ませてきた。
相変わらずの距離感のバグである。
どうも彼女は、こういう過剰なスキンシップによるコミュニケーションが好きらしい。最初は心臓が止まるかと思ったが、人間の適応力とは恐ろしいもので、最近ではこれにもだいぶ慣れてきた。
「……おはよう」
私は、能面のような顔を崩さないまま、ちゃんと挨拶を返す。
これも大きな進歩だ。
……あれ?
ふと、視線を部屋の奥に向けた私は、全身の筋肉を硬直させた。
パイプ椅子に座って宿題をしている金剛寺さんの、さらに奥。
部屋の隅っこの、一番薄暗いスペースに、見慣れぬ女子が縮こまるようにして座っていたのだ。
年齢は私より少し上だろうか。
前髪で顔の目元が隠れており、存在感が極めて薄い。
私の脳内で、最高レベルの警戒警報が鳴り響いた。
(……とうとう、この日が来たか)
私は瞬時に状況を悟った。
彼女はきっと、才川さんがどこかからスカウトしてきた、新しいバンドのメンバーだ。そして、担当は間違いなく『ボーカル』だろう。
素人の私よりも歌が上手く、声量があり、きっと華があるのだろう。
才川さんが連れてきたのだから、おそらく生粋の陽キャ――今は地味に見えるが、実力を隠しているに違いない。
そして、代わりのボーカルというピースが確保された以上、数合わせとして強引に引き入れられていただけの私は、用済みとなる。
今日、この場で、私はバンドをクビになるのだ。
* * *
『あなたをクビにするわ、細川さん』
『……理由を、お聞きしても?』
『見てわからないのかしら? こうして実力のあるボーカルを確保できたのだから、根暗で足手まといのあなたはもう必要ないわ。今までお疲れ様』
『……わかりました。リーダーの方針に従います』
* * *
これまで夜な夜なベッドの中で何度もシミュレーションしてきた絶望の妄想が、今まさに現実のものとなろうとしている。
私の胃袋は冷たく縮み上がり、心臓は早鐘を打っていた。
だが、外見上はいつもの無表情(能面こけし)を完璧に維持し、静かに死刑宣告の言葉を待った。
すると、才川さんが私の腕を引いて、その見知らぬ女子の前へと進み出た。
「紹介するわね。彼女は『吉良雲母』さん。私たちのバンドの、大事な協力者よ!」
才川さんは吉良さんの肩にポンと手を置き、今度は大げさな身振りで私を示した。
「そして吉良さん、この子がうちの『お抱えアーティスト』のメインボーカル。細川桜さんよ」
(……協力者?)
私の脳内コンピューターが、与えられた単語の処理に手こずる。
新メンバーではない?
ボーカルの交代ではない?
それに「お抱えアーティスト」とは一体どういう意味だろうか。
まるで私たちが、どこかの音楽事務所に所属しているかのような言い回しだ。
「あ、あの……吉良、と、言います。よ、よろし、く……お願いします」
吉良さんは、パイプ椅子から少しだけ腰を浮かせ、蚊の鳴くような、消え入りそうな声で言った。
前髪の奥から覗く瞳は、ひどく怯えている。
他者とのコミュニケーションを極度に恐れる、その独特の空気感。
(ああ、この人は私と同類なのね……)
直感した。
彼女は才川さんのような光の住人ではない。
私と同じ、いや、ひょっとすると私以上に深い暗闇を抱えた、生粋の陰キャだ。
「あ、はい……細川です。よろしく……」
私は、自分がクビにならないことに深く安堵しつつ、吉良さんに負けじと小さく陰気な声でボソボソと答えた。
お互いに目を合わせることもなく、ただ空間の隅と隅で微弱な電波を交信するような、極めてカロリーの低い挨拶の応酬。
「よし。じゃあ、挨拶も済んだことだし、練習するか」
奥に座っていた金剛寺さんが、立ち上がりながら言った。
彼女の堂々とした態度から察するに、金剛寺さんにはすでに吉良さんの紹介が済んでいたのだろう。
「ちょっと待って、萌」
才川さんが、パンと手を叩いて金剛寺さんを制止した。
「今日は新曲の音合わせの予定だったけど、その前にしておきたいことがあるの」
「しておきたいこと?」
「ええ。正確には、吉良さんからの提案なんだけどね」
才川さんは、部屋の隅の機材ケースから、見慣れない本格的なビデオカメラと三脚を取り出してきた。
「文化祭で演奏した曲を、まずやりましょう。吉良さんが動画に撮ってくれるから。井上さんと小清水さんにはもう連絡してあるわ」
どうやら、他のメンバーの二人にはすでに話が通っており、私と金剛寺さんにはこの場でまとめて伝える手はずになっていたらしい。
演奏するのは構わない。
だが、動画撮影?
「吉良さんに文化祭の演奏の話をしたらね、『それは絶対に数字とファンを獲得できるから、演奏している様子を撮って動画サイトで配信しましょう』って提案されたの」
才川さんは、いかにも楽しそうに目を輝かせている。
(数字と、ファン?)
私の頭の中に、疑問符が浮かぶ。
吉良さんの口から出たというその言葉は、まるで企業のマーケティング用語のようにビジネスライクに響いた。
私たちは、ただの女子高生が集まった趣味のバンドだ。
オリジナル曲を配信しているとはいえ、再生回数という『数字』や、見ず知らずの『ファン』の獲得なんて、気にするようなことなのだろうか。
一抹の違和感が胸をよぎる。
けれど、私の行動原理は極めてシンプルだ。
私を日陰から引っ張り出し、居場所を与えてくれた才川さんが「やる」と決めたのであれば、私に拒否権はない。
ただ絶対服従あるのみだ。
「……わかりました」
私は静かに頷き、背負っていたギターケースのジッパーに手をかけた。
薄暗いライブハウスの控室で、ビデオカメラの赤いランプが点灯する。私たちの趣味のバンドが、また一つ、得体の知れない次のステージへと進もうとしていた。




