第3話 聖域と空虚
終業を告げるホームルームのチャイムが鳴り止むか、あるいは鳴り終わるよりも早く――私の視界は、突如として鮮やかな光に占拠された。
「細川さん! 一緒に行きましょ!」
太陽がそのまま擬人化したような才川奏が、満面の笑みを湛えて私の机の前に立っていた。
クラスメイトたちの好奇の視線が、またしても私に突き刺さる。
私はそこから逃げるように鞄とギターケースを掴むと、「……うん」とだけ短く、消え入りそうな声で頷いた。
(軽音部の部室って、一体どこにあるんだろ……)
才川さんの少し後ろを歩きながら、私は内心で警戒レベルを最大まで引き上げていた。
どんな部員がいるのだろうか。
私と同じ、根暗な陰キャがいればいいのだが……。
あるいは、金剛寺さんのような不良っぽい見た目の人たちの、たまり場と化している可能性もある。
その想像に思い至った瞬間――
私はのこのこと誘いに乗ったことを激しく後悔した。もしも、扉を開けた先に待っているのがそんな地獄だったとしたら――。
(ダッシュで逃げるしかないわ。けれど、私の足で彼らから逃げ切れるかしら?)
そんな被害妄想を膨らませていた私の足が、下駄箱の前でピタリと止まった。
才川さんが、迷うことなく外履きに履き替えている。
そして、そのまま軽やかな足取りで校門の方へと向かっていくではないか。
(……あれ? 軽音部は?)
疑問符が頭の中を埋め尽くしていく。
しかし、生来の極度な人見知りが災いして、「どこに行くの?」という、たった一言の質問が喉に引っかかって出てこない。
ただ金魚のように口をパクパクさせている間に、私はずるずると学校の外へ連れ出されてしまった。
やがてたどり着いたのは、駅から少し離れた閑静な住宅街にある、立派な一軒家だった。
* * *
「ただいまー。今は誰もいないから、気を使わなくていいわよ。さあ、上がって上がって!」
(……軽音部じゃ、なかったんだ)
今更すぎる事実をようやく噛み締めながら、私はおそるおそる才川家へと足を踏み入れた。
案内されたのは、二階にある角部屋だ。
ドアを開けた瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
石鹸と、柑橘系のコロンが混ざったような、同級生の「女の子」特有の芳香。
綺麗に整頓された机、可愛らしいクッションが並ぶベッド。
そこは、私のような日陰の人間が足を踏み入れてはいけない、陽キャ女子の「未知の聖域」そのものだった。
「適当に座ってて!」
そう言って、才川さんは私を自分のベッドへと促した。
促されるままに腰を下ろすと、マットレスが柔らかく沈み込み、すぐ隣に彼女が座る。
距離が近い。
肩と肩が触れ合いそうな距離で、ふいに才川さんが艶やかな声を落とした。
「密室……、女と女が二人きり。何も起きないはずがなく……」
遠いどこかを見つめながら、意味不明なことを呟く才川さん。
その瞳には、どこまでが本気でどこからが冗談なのか判別がつかない、ミステリアスな光が宿っている。
私はなぜか心臓が跳ねるのを必死に隠した。
そして冷めた視線を維持しつつ、心の中で鋭くツッコミを入れる。
(練習に来たんだから、練習が始まるのよ。いいから早くギターを出しなさいよ)
密室だからって、殺人事件など起こるわけないじゃないか。
私が無言を貫いていると、才川さんは「じゃあ、練習を始めましょ!」とケラケラ笑いながら、部屋の隅から見慣れないハイエンドモデルのギターを引っ張り出してきた。
「近所迷惑になっちゃうから、アンプはなしね。生音でいこっか」
その瞬間、彼女の纏う空気が一変した。
ピックを握り、弦に指が触れた途端、あの動画で見た「怪物」が目を覚ます。
アンプを通さない、ペチペチという生音。
ごまかしが一切効かないその音でさえ、彼女のピッキングは恐ろしいほど正確で、一音一音が立っていた。
空気が、ビリビリと震える。
私は息を呑み、自分のギターを抱え直した。
(負けない。絶対、追いついてやる)
私は奏の手元を穴が空くほど見つめ、その高速な運指に必死で食らいついた。
彼女のリズム、弦を弾く強さ、そして息遣い。
そのすべてを脳に焼き付けようと、必死に指を動かし続けた。
それから一時間後。
極度の集中によって私が息切れを起こし始めた頃、唐突に部屋のドアがバーンと勢いよく開け放たれた。
「おねーちゃん! あそぼ!」
小さな弾丸のように飛び込んできたのは、小学生くらいの女の子だった。
才川さんの妹、陽葵ちゃんらしい。
「あー、陽葵! 今、お姉ちゃんたちは練習中だから!」
「えー! あ、だれこのおねーちゃん! ちっちゃい!」
「……えっと」
嵐のような展開に私が硬直していると、「休憩にしよっか」と才川さんが苦笑いを浮かべた。
一階のリビングへ降りると、そこにはさらに予想外の人物が待っていた。
「あら、奏のお友達? はじめまして」
エプロンを身に着けた、包容力を絵に描いたような大人の女性。
お姉さんの、亜麻音さんだった。
私がおずおずと頭を下げると、亜麻音さんはパッと顔を輝かせた。
「やだ、すっごく可愛らしい子ね! 本当にお人形さんみたい!」
「でしょー! 私の自慢の彼女なんだから!」
気がつけば、私は長身の亜麻音さんにぎゅっと抱きしめられ、足元では陽葵ちゃんにまとわりつかれていた。
右も左も、温かくて、いい匂いがして、とても賑やかで。
物理的な距離の近さと、才川家特有の「陽の気」が放つ奔流に当てられ、私は完全にフリーズしてしまった。
その後、高級そうな紅茶と美味しいクッキーで手厚い歓迎を受けた私は、逃げるように、けれど胸の奥に奇妙な温かさを抱えたまま、才川家を後にした。
* * *
ガチャリ、と重い音を立てて鍵を開ける。
「……ただいま」
暗く、静まり返った玄関。
返事はない。
私の家は母子家庭で、母親は仕事で帰りが遅い。
いつものことだ。
慣れているはずだった。
けれど、今日だけは。
リビングの電気を点けると、白い蛍光灯の光が、やけに冷たく感じられた。
時計の秒針が刻むカチカチという音だけが、無人の部屋に等間隔で響いている。
先程まで包まれていた才川家の熱気や笑い声との温度差が、ひどく鮮明に浮き彫りになる。
(……なんだか、変な感じ)
言いようのない寂しさが、足元からじわじわと這い上がってくるのを感じた。
私は頭を振り、台所へと向かう。
米を研ぐ。
ザルに当たる水の音が、静かなキッチンにやけに大きく響き渡った。
炊飯器のスイッチを入れ、小鍋でお湯を沸かす。
お母さんが仕事帰りに買ってくるお惣菜に合わせて、お味噌汁だけを作るのが私の日課だ。
豆腐とわかめを入れたお味噌汁が完成する頃、炊飯器から勢いよく蒸気が上がり、甘いご飯の匂いが漂い始めた。
温かいご飯の匂い。
それなのに、一人きりで立つキッチンの空気は、どうしようもなく冷たい。
自分の「自立」の証明であるはずのこの行動が、今はただ、私の「孤独」を際立たせている気がした。
私は逃げるように自分の部屋へと戻り、制服のままギターを抱えた。
さっき、才川さんの隣で弾いたフレーズ。
指先に残る彼女の音の感触を反芻しながら、ゆっくりと弦を弾く。ポロリ、と落ちた音色は、この静かな部屋の空気に溶けて、あっけなく消えていった。
(もっと。――もっと上手くならないと)
この空虚な静寂を完全に打ち消すほどの、圧倒的な音が欲しい。
私はこの寂しさを塗り替えるように、熱に浮かされたように、一人きりの部屋で何度も何度もギターを鳴らし続けた。




