第28話 敗北と再スタート
文化祭も終盤に差し掛かった頃――
私は部員たちを引き連れて体育館へと向かっていた。
才川奏のバンド、『KANADE-ZAKURA』のステージを見るためだ。
最初は、あんなお遊びのバンドなど見る気は毛頭なかった。
だが、私たちの完璧なステージを見下ろしていた彼女たちの、あの底の知れない余裕の表情がどうしても気に食わなかったのだ。
だから、見届けてやろうと思った。
コネと交渉力だけでステージに上がった素人集団の、学芸会レベルの程度の低い演奏を――。そして、しっかりと現実の厳しさを教えてやるつもりだった。
体育館へ向かう途中、廊下を歩いていた時だ。
ふと、クラスの出し物で誰もいないはずの教室から、微かな音が聞こえてきた。
シャッ、シャッ、というプラスチックが擦れるような乾燥した音。
サイレントピックを使った、ギターの練習音だ。
アンプに繋がれていないためメロディは聞こえないが、運指の滑らかさとカッティングの正確なリズムは、廊下にいる私にもはっきりと伝わってきた。
教室を覗き込むと、そこにいたのは細川桜だった。
先ほど客席から私たちを絶望的な顔で見つめていた、あの地味な少女。
彼女は一心不乱にコードを押さえ、無音のギターをかき鳴らしていた。
(……意外ね。結構、弾けるじゃない)
私は極めて冷静に、彼女の技術を頭の中で採点した。
一軍でエースを張っている私には及ばない。
だが、二軍であれば間違いなくトップクラスで通用するレベルだ。基礎ができている。何より、リズムキープが正確だ。
もし私がボーカルに専念する曲があるなら、彼女にサイドギターを任せてもいい。そう思える位には上手かった。
だから私は、教室を出てきた彼女に声をかけた。
「あなた、これから演奏するバンドの人よね?」
才川さんの気まぐれに付き合わされている可哀想な生贄。
そう思っていた私は、少しの優越感と同情を交えて、彼女を軽音部に誘った。「あなたさえよければ、軽音部に来ない?」と。
しかし、彼女の答えは予想外に冷たかった。
「……あの、私は軽音部には入りません」
無表情のまま、彼女は逃げるように背を向けていった。
(……そうよね。学校の主役である才川さんを、無下に裏切れるはずがないわ)
去っていく後ろ姿を見送りながら、私は勝手に納得する。
気の毒に。
あの子はきっと、このまま才川さんの気まぐれに巻き込まれて、都合よく使い潰される。
でも、それも仕方のないことなのだろう。
自分の意思より、周囲の期待を優先してしまうタイプなのだから。
少し胸が痛んだまま、私は体育館へと向かった。
* * *
文化祭の熱気が最高潮に達する、大トリの時間帯。
体育館のフロアは、すし詰め状態の生徒たちで異常なほどの熱を帯びていた。私たちは後方の壁際に陣取り、腕を組んでステージの幕が上がるのを待った。
やがて司会の紹介が終わり、照明が切り替わる。
ステージの上に現れた彼女たちの配置を見た瞬間、私の思考は一瞬、完全に停止した。
(……嘘でしょ)
ステージの中央。
マイクスタンドの前に立っていたのは、才川奏ではなかった。
学校の主役たる彼女は、上手側で赤いギターを構えている。
代わりに、ステージのど真ん中、フロントマンの位置に立っていたのは。
あろうことか、あの自信なさげに縮こまっていた少女、細川桜だったのだ。
驚愕を消化する暇もなく、才川さんの明るいMCが体育館を揺らし、そして――
演奏が、始まった。
放たれたのは、暴力的なまでの才川奏のギターソロだった。
私がこれまで積み上げてきた練習など、すべて子どもの遊びだったのではと思わせるほどの、圧倒的なテクニックと表現力。閃光のように空気を切り裂くその音色に、体育館が一斉にどよめく。
胸の奥まで震えるような衝撃だった。
続いて、サポートメンバーの腹の底に響く重厚なベースラインが重なる。
もう一人のサポートのキーボードも、素人の枠を軽々と飛び越えている。
金剛寺さんのドラムは、強烈なビートで全体を力強く牽引していた。
分厚い音の壁。
完璧に噛み合ったアンサンブル。
それは、高校の文化祭というぬるま湯の空間には到底収まりきらない、本物の『音楽』だった。
だが、私をもっとも打ちのめしたのは、それらではなかった。
イントロが明け、Aメロに入った瞬間。
細川桜が、マイクを両手で握りしめ、声を発した。
その歌声は、まるで鋭いナイフのように、真っ直ぐに私の胸を突き刺した。
教室で見たあの怯えた雰囲気はどこにもない。
彼女の奥底に眠っていた孤独や、鬱屈とした感情。
それらが全て熱量に変換され、魂の叫びとなって体育館の空気を震わせている。
上手い――誰よりも切実で、力強い声。
気がつけば、観客の誰もが、あの地味で目立たなかった少女の歌声に釘付けになっていた。彼女の放つ引力から、逃れられなくなっていた。
圧倒的だった。
あまりにも、美しかった。
私の胸の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
自尊心。
プライド。
軽音部のエースとしての自負。
努力を重ねてきたという自信。
それらが、彼女たちの奏でる圧倒的な音の奔流に呑み込まれ、あっという間に削り取られていく。
粉々に砕け散り、跡形もなく消え去っていく。
私は。
私たちは、井の中の蛙だった。
コネだの、人気だの、そんなくだらない偏見で彼女たちを貶めようとしていた自分が、ひどく滑稽で、惨めに思えた。
敗北。
完全なる、敗北だった。
* * *
演奏が終わった。
割れんばかりの歓声と、地鳴りのような拍手。
私は、呆然と立ち尽くす部員たちを促し、熱狂の渦に包まれる体育館から静かに抜け出した。
外に出ると、夕暮れが近づく秋の冷たい風が、火照った頬を撫でた。
祭りの後のような、少し寂しい匂いがする。
私の心は、空っぽになっていた。
けれど、不思議と絶望はしていなかった。
全てを失ったわけではない。彼女たちの音楽に打ちのめされ、魂が震えるほどの感銘を受けた。だが、私は決して彼女たちの「ファン」にはならなかった。
渡り廊下を歩きながら、私は足を止め、うつむく部員たちを振り返った。
「……目標が、できたわね」
私の口から出たのは、思いのほか澄んだ声だった。
「絶対に、追いつくわよ」
部員たちが、弾かれたように顔を上げる。
それが今の私たちにとって、どれほど無謀で、絶望的に無理なことかは嫌というほど分かっている。
実力差は歴然だ。
埋めようのない才能の壁があるかもしれない。
それでも、私は彼女たちを目標に定めた。
敵わなくてもいい。
届かなくてもいい。
這いつくばってでも、あの背中を追いかけたい。
そして、この軽音部の仲間たちと一緒に、もう一度、一から自分たちの音楽を作り上げていきたかった。
私たちにはまだ、高校生でいられる時間が残されているのだから。
歩き出しながら、私はふと、あの子のことを思い出した。
細川桜。
廊下で声をかけた時、無表情で、何を考えているか全くわからなかった女の子。
けれど、ステージの上で歌っていた彼女は、誰よりも真剣で、生き生きとしていて……そしてどこか、心から楽しそうだった。
『……あの、私は軽音部には入りません』
今なら、あの言葉の真意が痛いほどよくわかる。
彼女は、才川さんに脅されて数合わせで入れられていたわけではない。
ましてや、私が上から目線で救い出してやれるような、哀れな存在でもなかった。
あの子は――
あの怪物のようなバンドの、紛れもない『核』だった。
そう。
彼女にはすでに、あんなにも眩しい自分の『居場所』があったのだ。
私は、オレンジ色に染まり始めた高い秋空を見上げた。
砕け散ったプライドの残骸が、風に吹かれてどこかへ飛んでいくのを感じながら、私は少しだけ、晴れやかな笑みを浮かべた。




