第25話 文化祭の一日、相手のターン
文化祭当日。
校舎は非日常の喧騒と、ソースの焦げる匂いに包まれていた。
私のクラスの出し物は、定番中の定番「やきそば」の屋台である。
生徒たちの役割分担は極めて機能的だった。
私はテントの奥でひたすらキャベツを刻む「下ごしらえ担当」。視線を上げず、誰とも言葉を交わす必要のない、陰キャにとっての安息の地だ。
一方、テントの最前線では金剛寺さんが「調理担当」として鉄板の前に立っていた。彼女の持ち前のパワーと豪快なヘラさばきは、ただ焼きそばを炒めているだけなのに妙な迫力があり、一種のパフォーマンスとして客を集めていた。
そして「給仕担当」は才川さんだ。
可愛らしいウエイトレス風のエプロンを身に纏った彼女が「お待たせしました!」と笑顔を振りまくたびに、男子生徒たちが吸い寄せられるように列を作っていく。
適材適所。
私は黙々と自分のノルマであるキャベツの山を切り終え、一番に裏方の仕事を完遂した。次いで金剛寺さんが目標食数を焼き終え、火を落とす。最後まで接客に追われていた才川さんも、やがて持ち場を離れた。
ちょうどそのタイミングで、午後から合流した凛ちゃんと小清水さんが私たちの屋台にやってきて、最後の焼きそばを買ってくれた。
これで、クラスの手伝いは完全に終了だ。
ここからは、バンドメンバー五人での自由時間となる。
* * *
「あー、疲れた! でも楽しかったわね。さあ、私たちも色々見て回りましょうか」
才川さんの号令で、私たちは料理を買い食いしながら校内を散策することになった。たこ焼き、フランクフルト、綿菓子。非日常の空気に当てられ、普段は大人しい小清水さんや凛ちゃんも少しテンションが高い。
その道すがら、パンフレットをめくっていた才川さんが、ふと声を上げた。
「あっ! 軽音部の演奏もあるじゃない!」
「ふぅん。ちょっと見てみるか?」
金剛寺さんが焼き鳥の串を齧りながら応じる。
「パンフレットによると、部内でオーディションをして選ばれたメンバーで、オリジナル曲を作ったみたいですね」
小清水さんが冷静に情報を読み上げる。
「桜の学校の軽音部って、結構部員がいるんだ」
凛ちゃんが感心したように言った。
そうなのだ。
私自身、この学校の軽音部に全く興味がなかったので知らなかったのだが、うちの軽音部は部員が足りないどころか、ステージに立つ人間を選抜するほどのマンモス部活らしい。
午前中に演奏していたのは二軍で、これから一番いい時間帯に演奏するのが一軍だという。才川さんの一声で、私たちは軽音部のライブを見に体育館へ向かうことになった。
* * *
体育館の扉を開けると、むせ返るような熱気と人の波が押し寄せてきた。
結構な数の生徒が集まっている。ステージ上では、ちょうど一軍のライブが始まるところだった。
マイクスタンドの前に立つのは、白いテレキャスターを構えた女子生徒。
凛とした立ち姿。
真っ直ぐな瞳。
今朝、私に盤外戦術の精神攻撃を仕掛けてきた二軍のメンバーたちの姿はそこにはなく、彼女がこの軽音部のエースなのだと一目でわかった。
ドラムのカウントが響き、曲が始まる。
放たれた音は、体育館の空気を一瞬で制圧した。
ストイックなまでに正確なリズム。寸分の狂いもないピッキング。
まるで、日々の鍛錬の結晶がそのまま音となって具現化しているかのような、洗練された正統派のギターロックだった。淀みなく刻まれるコード進行の上を、彼女の芯のあるボーカルが伸びやかに駆けていく。
「ふーん、まあまあだな」
金剛寺さんが、腕を組みながら呟いた。
「あら、結構やるじゃない。流石は朝日奈さんね」
才川さんが感心したように頷く。
「皆さん、お上手ですね。アンサンブルがしっかりしています」
「部員が多いだけあるわね。基礎ができてる」
小清水さんと凛ちゃんも、それぞれプロデューサーのような視点で感想を述べている。
この四人の技量は、どう控えめに客観視しても、今ステージで演奏している軽音部のメンバーよりも圧倒的に上だ。
だからこそ、彼女たちは全く脅威を感じることなく、余裕のある自然体で相手を褒めることができるのだ。
だが、私は違った。
四人の背後に隠れるようにステージを見つめながら、私の心臓は嫌な音を立てて早鐘を打っていた。
朝日奈さんの手元から目が離せない。
指の運び、カッティングの鋭さ、音の粒立ち。
(……同じだ)
冷や汗が背中を伝う。
朝日奈さんのギター演奏のレベルは、私とほぼ互角だったのだ。
いや、安定感で言えば彼女の方が上かもしれない。
しかも、彼女はあれだけのギターを弾きながら、同時にメインボーカルとして堂々と歌い上げているのだ。
私といえば、才川さんの超絶ギターの影に隠れて、目立たないように歌うことしか考えていない卑怯者である。
(つまり、精神的に脆い私には勝ち目はない……!)
朝日奈陽菜菜。
彼女は、私の完全な「上位互換存在」だった。
同じくらいのギター技術を持ち、私にはない度胸と統率力を備えている。
そして、ボーカルも担当している。
もし、私たちのバンド「KANADE-ZAKURA」のボーカルが私ではなく彼女だったなら、才川さんたちの足を引っ張ることもなく、もっと素晴らしい音楽が作れるのではないか。
そんな思いが脳裏によぎる。
(まずい。このままでは……クビになるかもしれない)
自己評価の低さが限界を突破し、私の心の中で非常ベルが鳴り響く。
朝、廊下で受けたあの陰口など、ただの挨拶代わりのジャブに過ぎなかったのだ。敵の本命は、このライブそのものだった。
実力という名の渾身の右ストレートを顔面にまともに食らった私は、バンドをクビになるかもしれないという強迫観念に囚われながら、残りの演奏を虚ろな目で聴き続けた。
私たちの演奏は、この軽音部のライブの一時間後。
文化祭の終了間際、本来なら予定されていなかった枠を才川さんが力技でねじ込み、確保した大トリの時間帯だ。
私のバンドメンバーとしての余命は、あと一時間後のライブ終了までかもしれない。
* * *
冷たい廊下。
喧騒は遠い。
私は一人、教室に向かっていた。
出番が近づき、自席に置いたままのギターを取りに来たのだ。
クラスの出し物は屋台のため、教室は完全なもぬけの殻だった。
黒板の端に書かれた日直の名前。
机の並び。
微かなチョークの匂い。
私は自分の席まで歩き、黒いケースのジッパーを下ろした。
重い。
ギターのネックを握る手に、じっとりと汗が滲む。
不安だった。
朝日奈さんの完璧な演奏が、網膜に焼き付いて離れない。
私はポケットからピックを取り出した。
それを指に挟み、無音の教室でコードを鳴らす。
指は動く。
コードは間違えていない。
でも、足りない。
何かが決定的に足りない。
数分間、無音の足掻きを続けた後、私は諦めてギターをケースに戻し、背負い直した。
行かなければ。
処刑台が私を待っている。
教室の扉を開け、廊下へ一歩踏み出した。
その時だった。
「あなた、これから演奏するバンドの人よね?」
凛とした声が、逃げ場のない廊下に響いた。
顔を上げる。
そこには、つい先ほどまでステージの上で眩しい光を浴びていた一団がいた。
軽音部。
そして、その先頭に立ち、真っ直ぐに私を見据えているのは――白いテレキャスターを背負ったエース、朝日奈陽菜菜だった。
「…………」
私は、息を呑んだ。
才川さんも、金剛寺さんもいない。
私一人きりの状況。
彼女の目には、私のことを見定めるような鋭い光が宿っていた。
私の喉は完全に干上がり――
ただ無表情の面を顔に貼り付けることしかできなかった。




