第23話 日常と非日常
終わりのホームルームを告げるチャイムが鳴り、担任の短い号令が終わるや否や、私はそそくさと鞄を手に取って教室を出た。
一刻も早くこの集団生活の場から立ち去り、安全な家へと帰還するためだ。
しかし、廊下を足早に歩き出した私の背中を、弾むような足音が追いかけてきた。
「待って細川さん。一緒に帰りましょ」
「……うん」
振り返ると、才川さんが嬉しそうに小走りで駆け寄ってくる。
彼女が隣に並ぶと、すれ違う生徒たちの視線がちらほらとこちらに向くのがわかった。
才川さんは相変わらず、どこにいても目を引く華やかなオーラを放っている。
「ねえ、もう聴いてみた? 私たちのバンドの曲の配信、始まったわよ」
才川さんが、声を潜めながらも興奮気味に耳打ちしてきた。
この間、あの恐ろしいプロ仕様のスタジオでレコーディングした音源が、ついに各種ストリーミングサービスで公開されたらしい。
「……そうなんだ」
「ええ。いきなり何万回もバズるなんて甘いことはないけど、初日の再生数は数百くらいはいってるわ。結成したての無名の高校生バンドにしては、かなり順調な滑り出しって言っていい数字よ。ライブハウスでファンを増やした成果ね」
才川さんは誇らしげに胸を張る。
数百回。
確かに数字として聞けばすごいことなのかもしれない。
あのライブハウスにいたお客さんたちが、画面の向こうで私たちの曲を聴いてくれているのだろう。
けれど、目の前に観客の熱気があるわけでもなく、スマホの画面上の数字が増えていくだけという事実に、私は今ひとつ現実感を持てずにいた。
自分の声が、見知らぬ誰かのイヤホンから流れている。
そう考えると背筋がむず痒くなるが、実感という意味ではひどく希薄だった。
「あっ、そういえば、曲のアレンジ面白かったわね。腕が鳴るわ!」
才川さんが、ふと思い出したように話題を変えた。
文化祭で演奏することになった有名曲のカバー。
そのアレンジ音源が、昨日、凛ちゃんと小清水さんから送られてきたのだ。
私の「才川さんのギターソロを最初に持って来て、私を目立たなくさせる」という陰湿な生存戦略は、彼女たちの手によって『観客の意表を突く、ギターが主役のドラマチックなイントロ』という見事なプロの犯行へと昇華されていた。
「当日までに、各自しっかり練習しておきましょうね」
才川さんの「腕が鳴る」という言葉に、私の胃の奥がキュッと縮み上がる。
ただでさえ私は技術が足りないのだ。
才川さんの足を引っ張るわけにはいかない。失敗できないというプレッシャーが、重く肩にのしかかる。
「演奏するのが本当に楽しみね。……じゃあ、また明日ね、細川さん」
廊下の分岐点に差し掛かったところで、才川さんが立ち止まって手を振った。
文化祭で出し物をする生徒の代表者は、今日の放課後に集まることになっている。
才川さんはこれから、生徒会からの説明を受けるために指定された教室へと向かうらしい。
「……うん、また明日」
私は軽く手を振り返し、才川さんの背中を見送ってから、昇降口へと続く階段に向かって歩き出した。
* * *
一人になり、ふっと息を吐き出す。
才川さんたちと一緒にいる時間は嫌いじゃない。
むしろ好き、かもしれない。
でも、やはり気を張っている部分があるのか、一人の時間に戻ると少しだけホッとする自分がいる。
そんなふうに油断しながら階段の踊り場に差し掛かった、その時だった。
「ちょっと、あんた」
不意に、進行方向を塞ぐように三人の女子生徒が立ちふさがった。
甘ったるい香水の匂いが鼻をつく。
見覚えのある顔だった。
一年生の時に、同じクラスだった人たちだ。
当時は私がひたすら息を潜め、教室の背景と同化することに全力を注いでいたため、彼女たちから直接絡まれるようなことは一度もなかった。
「こいつ、あの才川さんに取り入ってんの?」
「能面こけしの癖になまいき~」
「お前みたいなのが、仲良くしていい相手じゃないでしょ? そんなこともわかんないの?」
次々と投げつけられる、棘のある言葉たち。
なるほど、理解した。
彼女たちは、地味で目立たない「底辺」の私が、学校のアイドル的存在である才川さんと親しげにしていることが気に食わないのだ。
調子に乗っている陰キャを叩き潰し、学校のヒエラルキーの秩序を守ろうとする、彼女たちなりの正義の執行なのだろう。
(……どうしよう。ひたすら面倒なことになった)
私の脳内は激しく警鐘を鳴らし、焦燥感でいっぱいになっていた。
ここで何か気の利いた言い訳や、へりくだった言葉を口にできれば、穏便に済むのかもしれない。「能面こけし」という悪口に対しても、何か反応を示すべきなのだろうか。
しかし、私の喉は完全に凍りついていた。
元々、とっさのコミュニケーションが大の苦手なのだ。
何を言えば正解なのか、脳内の検索エンジンは完全にフリーズしている。
結果として、私は彼女たちの前に立ち尽くしたまま、いつも通りの「無表情」と「無言」を貫くことしかできなかった。
消極的な無言。
それが彼女たちの神経をさらに逆撫でしたらしい。
「おい、何とか言えよ」
「シカトか、こら!」
「こいつさー、ビビってんじゃねーの?」
三人組が一歩、私との距離を詰めてくる。
(はい、とてもビビってます……)
心の中で白旗を揚げながら、私は目を伏せた。
その時。
「お~い、桜。なに突っ立ってんだ?」
階段の上から――
のんびりとした、けれどやけに腹の底に響く低い声が降ってきた。
ビクッとして、三人組が弾かれたように階段の上を見上げる。
私もつられて視線を上げた。
そこに立っていたのは、金剛寺さんだった。
鞄を肩に引っかけ、ポケットに手を突っ込んだ立ち姿。
彼女の位置からだと、三人組の姿は見えず、私がぼけっと階段の途中で立ち尽くしているように見えたのだろう。
彼女の問いかけは、ただの友人への気安い声かけに過ぎなかった。
怒気など一切含まれていない。
しかし、階段の上から見下ろしてくるその鋭い三白眼と、高身長から放たれる圧倒的な「強キャラ」のオーラは、見知らぬ人間からすれば、因縁をつけようとしている凶悪な不良にしか見えない。
空気が、文字通り凍りついた。
金剛寺さんの声を聴いた三人組の顔から、さっきまでの攻撃的な色がスッと抜け落ち、青ざめていくのがわかった。
「…………」
「は、早く、行こっ……!」
彼女たちは怯えたように顔を見合わせると、スッ……と回れ右をして、脱兎のごとく階段を駆け下りて逃げていった。
* * *
(……わかる)
逃げ去っていく彼女たちの背中を見送る私の心には、深い共感しかなかった。
何しろ、私が初めて金剛寺さんに話しかけられた時なんて、「あ、殺される」と反射的に死を覚悟したくらいなのだ。
彼女のあの威圧感の前に立たされれば、誰だって逃げ出したくなる。
(怖いよね)
と、私は心の中で三人組に深く同意した。
「なんだあいつら。急いでたのか?」
階段を降りてきた金剛寺さんが、不思議そうに首を傾げる。
自分の容姿がもたらした「無自覚な救済」に、彼女は全く気づいていない。
「……うん。たぶん」
「ふーん。まあいいや。途中まで一緒に帰ろうぜ」
「……うん」
私は金剛寺さんと並んで歩き出した。
見た目は不良で、他の生徒からカツアゲの現場だと勘違いされそうな並びかもしれないが、中身は太陽のように明るく、誰よりも優しいのが彼女だ。
金剛寺さんの大きな歩幅に合わせながら歩いていると、先ほどの三人組に絡まれた時の強張りが、少しずつ解けていくのがわかった。
日常に浸食してくる非日常のトラブル。
でも、私にはもう、こうして隣を歩いてくれる仲間がいる。
一年前とは違う。
私の「日常」と「非日常」が入れ替わっていた。
* * *
家に帰り、手を洗うと、私はいつものルーティンをこなす。
まずは学校の宿題を終わらせ、それから台所に立って夕食の準備をする。冷蔵庫の残り物を確認し、手際よく野菜を刻んでいく。
そして、夕食の準備と並行して行うのが、日々のボイストレーニングだ。
集合住宅である我が家で、大声で歌うような真似は絶対にできない。
近所迷惑にならない範囲での地道な練習。
お湯を沸かしながら、唇を震わせるリップロールを行う。
「ブルルルルル」という間の抜けた音を立てながら、息を均一に吐き出す感覚を体に覚え込ませる。
続いて、鼻腔に響かせるような静かなハミング。
喉に負担をかけず、声帯をコントロールするための大切な基礎練習だ。
ギターの練習は、夕食を食べ、お風呂に入ってからだ。
自室のベッドに腰掛け、アンプに繋がない生音のまま、ギターの弦を弾く。
(アレンジ曲、きちんと弾けるようにならないと……)
バンドを組む前の私は、現実逃避のようにギターの練習ばかりをしていた。
暗い部屋で一人、誰に聴かせるわけでもなく弦を弾いている時だけが、私がいっぱしの人間になれる瞬間だった。
だが、今ではボイストレーニングの優先度の方が高い。
ギターの演奏は、あの圧倒的な才能を持つ才川さんがいる。なら、バンドにとって一番重要な私の役割は「歌うこと」だ。
ただでさえ私は、他のメンバーと比べて実力が大きく劣っている。
レコーディングの時に、デジタル信号として可視化された自分の無力さは、今もチクチクと胸を刺す。
こっちに引っ越してきてからは、さぼりがちだった歌の練習。
それを今は、自分から進んで真剣に取り組んでいる。
「……すぅぅぅぅ……」
長く息を吸い込み、横隔膜の動きを確かめる。
自分が少しずつ「プロ」としての自覚を持ち始めていることなんて、私はまだ認めたくない。
ただ、みんなと一緒にステージに立って、恥ずかしくない音を鳴らしたい。
静かな部屋に、ポロロン、という不器用なギターの音が一つ、吸い込まれて消えた。




