第22話 小動物の生存戦略
トントン、と規則正しい音がキッチンに響く。
夕暮れ時。
私は母の帰宅に合わせて、夕飯の準備を進めていた。
炊飯器からは炊きたてのご飯の甘い香りが立ち上り、コンロの上では豆腐とわかめの味噌汁が静かに湯気を立てている。
ボウルの中では、茹で上がったジャガイモをマッシャーで一心不乱に潰している。
ポテトサラダ。
最近レシピに加わった私の好物。
「……それで、当日の機材搬入なんだけど、井上さんと小清水さんの分は、私が車で運ぶ手配をしたわ。二人は身軽に来てちょうだい」
キッチンのカウンターに置いたスマホから、才川さんのハキハキとした声が漏れる。
レコーディングから数日。
今日はバンドメンバー全員でのグループ通話によるミーティングだ。議題は、二学期の目玉イベント――文化祭ライブについて。
凛ちゃんと小清水さんは遠方からわざわざ来てくれることになるため、移動や機材の調整は不可欠だ。その辺りの繊細で面倒な配慮は、すべて才川さんが『KANADE-ZAKURA』のリーダーとして引き受けてくれている。
『ええ、助かるわ。それなら当日に慌てることもないわね』
『楽しみですね。文化祭、他校にお邪魔するのは初めてなのでドキドキします』
凛ちゃんと小清水さんの落ち着いた声。
それに対して、
『よっしゃー! 文化祭ライブ! いっちょドカンと暴れてやろうぜ!』
と、金剛寺さんの威勢のいい声が割って入る。
私はポテトサラダにキュウリを投入しながら、黙ってそのやり取りを聞いていた。
基本、私は聞き専だ。
調整事なんて高度なコミュニケーション、私のようなコミュ障には荷が重すぎる。
「さて。確認作業が終わったところで、本題に入りましょうか」
才川さんの声のトーンが、少しだけ真面目なものに変わった。
『演奏する曲、何がいいかしら?』
『何曲くらいできるのでしょうか?』
『一番派手なやつがいいな! 学祭だし!』
『私は、みんなが決めた曲ならどれでもいいわよ』
スマホから次々と意見が飛び出す。
いつもなら、ここで私は「……」と無言を貫いて、流れに身を任せるところだ。
しかし、今回ばかりはそうはいかない。
(マズい。このままじゃ、『生き地獄』が現実になってしまう……!)
私の脳内には、恐ろしい未来予想図が展開されていた。
体育館を埋め尽くす全校生徒。
色めき立つ同級生。
壇上に上がる私たち――。
そのステージの中心で、スポットライトを浴びた私が……夏休みまでに必死に、のたうち回りながら書いた、あの『陰気臭いオリジナル曲』を絶唱している姿。
それはもはやライブではない。
全校生徒の前で、自分の日記帳を朗読させられる公開処刑だ。
社会的な死。
卒業までの残り一年半を、石像のように固まって過ごさなければならなくなる。
――阻止しなければならない。
私の安寧と尊厳を守るために。
私はポテトサラダを練る手を止め、震える指でスマホのミュートを解除した。
* * *
「あの……」
蚊の鳴くような声。
けれど、才川さんは逃さなかった。
「あ、細川さん! 何か意見ある?」
「……わたしは、あの、オリジナルじゃなくて。有名な曲のカバーを、アレンジしてやるのが、良いかなって……」
言った。
言ってしまった。
一瞬、通話の向こうが静まり返る。
『……? せっかくなんだから、自分たちの曲の方が良くないか? 桜の歌、みんなに聴かせたいしよ』
金剛寺さんの素直な疑問が胸に突き刺さる。
ありがとう金剛寺さん。
でもその好意が、小動物の私には猛毒なんだ。
「待って、萌。細川さんには、きっとなにか深い深謀遠慮があるのよ……!」
才川さんが、いつもの「細川桜・過大評価モード」に入った。
『……深謀遠慮、ですか?』
「そうよ! ただのカバーじゃないわ。細川さんのことだもの、文化祭という特殊な環境を計算し尽くした上での提案に違いないわ!」
いや、単に自分の歌詞が恥ずかしいだけです。
『確かに、知らないオリジナル曲を聴かされるより、みんなが知っている曲の方が盛り上がりやすいとは思います……』
小清水さんが冷静に分析を始める。
『そうね。冒頭を思い切りアレンジして、「何の曲だろう?」って観客に思わせておいて、サビで誰もが知ってるメロディーが入って「ああっ!」ってなる。そのギャップで会場を一気に掴む……面白いじゃない』
凛ちゃんまで、プロのプロデューサーみたいな解釈を加えてくれた。
話が勝手に、私が意図もしなかった高度な戦略へと昇華されていく。けれど、好都合だ。私はその流れに乗って、本命の「盾」を提示する。
「それで……冒頭は、あの、才川さんのギターソロを、すごく長くして……みんなが、ギターに釘付けになるような……そんな感じに、したいなって……」
これだ。
これが私の真の狙い。
ライブの開始早々、才川さんに超絶技巧のギターソロを披露してもらう。観客の意識を、視線を、興味を、すべて「天才美少女ギタリスト・才川奏」に集中させる。
観客が彼女の指先に酔いしれている間に、私はその影でこっそりと、目立たないように歌う。そうすれば、私の顔や歌声をまじまじと観察されるリスクを最小限に抑えられるはずだ。
「……いいわね! 細川さんのアイデアで行きましょう!」
才川さんの声が弾んだ。
「私のギターで観客を惹きつけて、そこへあなたの歌声を叩き込む……最高の演出だわ。さすが細川さん、自分の立ち位置を分かってるわね!」
はい、ええもう――。
自分の立ち位置(=目立ちたくない陰キャ)は痛いほど分かってます。
『よし、決まりだな! アレンジは井上と小清水に任せるぜ。私は叩きまくるだけだ!』
『ふふ、面白いステージになりそうですね』
『本番までに各自練習しておきましょう!』
通話が終わり、キッチンに再び静寂が戻る。
私はこっそりと、胸をなでおろした。
これで文化祭での「公開処刑」は回避された。
スポットライトはすべて才川さんが引き受けてくれる。
私はその光の影で、ただの「声を出す装置」として機能すればいい。
(……計画通り)
私は完成したポテトサラダを皿に盛り付けながら、小さく独りごちた。
自分が少しずつ、この「最強バンド」のメンバーとして、不純な動機であっても主体的に関わり始めていることに、まだ自分自身でさえ気づかないまま。




