第21話 初めてのレコーディング
朝の光が薄いカーテンを透かして、私の狭い部屋に差し込んでいる。
三連休の中日。
目を覚ますと、床に敷いた布団でスヤスヤと眠る凛ちゃんと小清水さんの姿があった。夏休みに一緒に出かけて以来、小清水さんも遠慮せずにうちに泊まるようになった。
壁際のコンセントには、小清水さんが持参した三股の充電ケーブルが刺さっていて、私たちのスマホが仲良く三台並んでエネルギーを補給している。ベランダには、昨日洗って干した三人のTシャツが初秋の風に揺れていた。
そんな日常の侵食具合に、私は少しだけくすぐったいような、不思議な居心地の良さを感じている。
* * *
昨夜は、布団の中で才川さん、金剛寺さんとグループ通話を繋いで、今後のバンド活動の打ち合わせをした。
『学園祭には出たいわね!』
スマホのスピーカーから響いた才川さんの声は、相変わらず太陽みたいに底抜けに明るかった。彼女はこういうお祭り騒ぎのイベントには目がない。
『いっちょ、度肝を抜かしてやるか!』
金剛寺さんもすっかり乗り気で、私の「いや、人前とか無理だから」という心の中のつぶやきは、圧倒的多数決の前に一瞬で掻き消された。
凛ちゃんたちの通うお嬢様学校は格式が高く、外部の人間がバンドでパフォーマンスをすることは許可されないらしい。となると、必然的に私たちの通う高校の文化祭がターゲットになる。
次々と予定が埋まっていく。
目まぐるしい日々。
でも、灰色一色だった私の高校生活に、鮮やかな色がどんどん塗られていくこの感覚は……正直に言えば、嫌ではなかった。
* * *
そんな感傷も、昼過ぎに訪れた「現場」で跡形もなく吹き飛ぶことになる。
まだ残暑の厳しい中、汗を拭いながら三人で辿り着いたのは、雑居ビルの一角にある本格的なレコーディングスタジオだった。
重厚な防音扉の向こうには、宇宙船のコックピットかと見紛うほど巨大なミキサー卓と、無数のスイッチ、そして素人目に見ても高価だとわかる機材がズラリと並んでいた。
(嘘でしょ……? 高校生の趣味のバンドなのに、こんなガチなところに来てよかったの……?)
胃の裏側あたりがキュッと縮み上がる。
圧倒的な場違い感。
私服のまま国連会議に迷い込んでしまった一般市民のような吐き気を覚える。
しかし、そんな私のパニックなどどこ吹く風で、才川さんはスタジオのスタッフのお姉さんたちと――
「今日はお世話になりまーす」
「ここのモニター、少しロー切ってもらえます?」
なんて、プロみたいな口ぶりで軽やかに会話していた。
気後れという概念が、彼女の辞書には存在しないらしい。
収録は順番に各パートを録っていくことになり、トップバッターは才川さんだ。
ブースに入った彼女は、迷いのない指さばきで、まるで流れるようなギターソロを弾ききった。
「奏ちゃん、やっぱりうまいわね」
「もうプロでも十分通用するわ」
ミキサー卓の前に座るスタッフのお姉さんが、感嘆の息を漏らす。
(――流石は才川さんだ。年上の現場の人たちから絶賛されてる)
胸の奥がじんわり熱くなる。
私はなぜか、自分のことのように鼻が高くなった。
その後に続いた金剛寺さんのドラム、凛ちゃんのベース、小清水さんのキーボードも、見事なまでにスムーズだった。
ほぼ一発OKか、数回のリテイクで終わってしまう。
ガラス越しに彼女たちの完璧な演奏を見つめながら、私の心臓は嫌な音を立てて早鐘を打っていた。
(みんな、凄すぎる……。私だけ失敗したらどうしよう……)
逃げ出したい衝動を必死に押さえつけているうちに、ついに私の順番が来てしまった。
* * *
一番最後。
ボーカルパートの収録だ。
案内されたボーカルブースは、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
分厚い防音扉が閉まると、自分が世界から完全に隔離されたような気がして、呼吸が浅くなる。
頭にヘッドホンを装着する。
マイクの金属的な冷たさが、処刑台のギロチンを連想させた。
ヘッドホン越しに、自分の浅い呼吸音や、唾を飲み込む生々しい音までが、逃げ場のない高解像度で脳内に直接響いてくる。
(怖い。私の無様な声が、デジタル信号として永遠に残ってしまう……)
恐怖で足がすくむ。
だが、ヘッドホンからイントロのオケが流れ始めた瞬間、カチリ、と頭の中のスイッチが切り替わった。
ライブの時と一緒だ。
音が鳴れば、余計な思考は消え去り、無心になれる。私はただ、自分の中にある言葉にならない感情を、声帯を震わせてマイクに叩きつけた。
曲の終わり、最後の余韻が消え、静寂が戻る。
ガラスの向こうを見ると、スタッフのお姉さんたちが口元を手で覆い、目を丸くして固まっていた。
インターコム越しに声が聞こえてくる。
「……凄かったわ……力強いのに透明感がある。ちょっとした癖も魅力になってる」
「私、ファンになっちゃった。この子の声、天使だわ……!」
手放しの絶賛。
だが、私のネガティブ脳内フィルターは、その輝きを一瞬で黒塗りにした。
(……ああ。これは営業トークというやつね。機嫌良く歌わせてスムーズに進行させるためのマニュアル対応だわ。浮かれないようにしないと)
私は無表情のまま、「……ありがとうございます」とだけ、事務的に頭を下げた。
* * *
しかし、真の地獄はその後に待っていた。
私のギターパートの収録である。
ボーカルで誤魔化せていた私の技術不足は、冷徹な機械の前では丸裸にされた。
「そこ、少しリズムが走ってるからもう一回」
「ピッチが甘いわね、もう一度お願い」
何度弾き直しても、スタッフのお姉さんからダメ出しが飛んでくる。
さっきの「営業トーク」はどこへ行った。
モニターの画面に表示される波形データ。
それはまるで、私の無能さが視覚化され、デジタル信号として残酷に刻印されていく過程を見せつけられているようだった。
(みんなは一発OKだったのに……私だけダメだ。皆の足を引っ張ってる。やっぱり私は、このバンドのお荷物なんだ……)
エンジニアの「テイク・セブン、いきます」という声が、死刑宣告のように響く。
* * *
収録を終え、スタジオを出た時には、とっぷりと日が暮れていた。
私の精神は完全に擦り切れ、MPはマイナスに振り切れていた。膝に力が入らず、足元はおぼつかない。
そんな私の両脇を、凛ちゃんと小清水さんが挟むようにして歩いてくれている。
二人の支えがなければ、間違いなく道端の側溝にダイブしていただろう。
「桜はボーカルとギター両方だから、疲れたのね。よく頑張ったわ」
凛ちゃんが、いつもより少し優しい声で言う。
「本当にお疲れ様でした。頑張りましたね、細川さん」
小清水さんも、ふんわりとした笑顔で私の背中をさすってくれた。
夏の終わりの夜風が、冷や汗で火照った頬を心地よく撫でていく。
二人の言葉には、大人のような営業トークも、おだてもない。ただの、純粋な労いと優しさだった。
「……うん。ありがとう」
私はポツリとこぼした。
私は、どこまでも卑屈でネガティブな陰キャだ。
技術だって全然足りていない。
それでも、私の隣には一緒に歩いてくれる仲間がいる。
自分の居場所がここにあると、そう思えることが、今は何よりも嬉しかった。
私は本当に、いい友達に恵まれている。
空を見上げると――
街灯に照らされた雲の隙間から、小さな星が不器用に瞬いていた。




