第20話 新学期、新たなるステージ。
九月一日。
カレンダーをめくった瞬間に世界が滅んでいればいいのにと願ったが、残念ながら地球は今日も元気に自転していた。
二学期最初の登校日。
夏休みというモラトリアムの終わりを告げる太陽は、容赦なくアスファルトを焼き、私の憂鬱をこれでもかと煮詰めてくる。
湿り気を帯びた残暑の熱風が肌にまとわりつき、一歩進むごとに足が鉛のように重くなる。
(行きたくない……。学校なんて、なんであるんだろう。きっと、友達がたくさんいて、放課後の予定が埋まっているような『あっち側』の人間が、自分の優位性を確認するために作った制度に違いない)
そんな被害妄想を脳内で垂れ流しながら、私は校門をくぐった。
私にとって学校とは、「透明人間」でいなければならない場所だった。
目立ってはいけない。注目を浴びたくない。隅っこで息を潜め、誰の視界にも入らず、ただ時間が過ぎるのを待つだけの収容所。
私は自己顕示欲が強いくせに、周囲の評価におびえる人間だ。
その矛盾した心が、私を典型的な人見知りの陰キャにしている。
褒められたいし、馬鹿にされたくない。
そして、自分が人から見下されることを知っている。
そんな私にとって、同世代の少年少女が集まる学校は、生きづらい空間だ。
だからここでは、息をひそめて存在を消す。
――しかし、校舎の玄関に入り、教室へ向かう廊下を歩いていたその時。
私の平穏な透明生活に終わりを告げる衝撃波が放たれた。
* * *
「おはよー、細川さん!」
「はよー。新学期、マジだるいよねー」
心臓が跳ね上がった。
あまりの衝撃に、膝がカクンと崩れそうになるのを必死に堪える。
私の視界に飛び込んできたのは、クラスメイトの女子二人組。
おさげの髪が元気よく揺れている矢野茜さんと、茶髪のボブヘアを少し眠そうに揺らしている三村未衣菜さん――通称みーなさんだ。
「…………っ」
声が出ない。
顔はいつもの通り、感情の起伏が一切失われた鉄面皮を維持できているはずだが、心の中はもうめちゃくちゃだ。
今の私を例えるなら、酒場の扉を蹴破って入ってきた荒くれ者に、いきなり銃口を突きつけられた丸腰のカウボーイである。
(どういうこと……? なんで私に話しかけてくるの? それも親し気に――お金を貸して欲しいんだろうか? それとも、私が知らないだけで『地味な奴に話しかける』ことが流行ってたりするのだろうか……!?)
パニックは加速する。
彼女たちは、何だか妙に親しげだ。
とにかく、挨拶をされたのだから「おはよう」と返さなければならない。
人として当然のマナーだ。
頭では分かっているのに、喉の筋肉が完全にロックされている。突然のことに驚きすぎて、呼吸の仕方すら忘れてしまった。
(まずい、このままだと、無視したことになってしまう。ただでさえ暗い私が、感じの悪い暗い奴に格上げされてしまう……!)
必死の思いで絞り出した対抗策は、言葉ではなく物理的な挙動だった。
私は、コクリと小さく、しかし明確に頭を下げた。
咄嗟の機転による会釈。これで、少なくとも「無視」という最悪の事態は免れた……はずだ。
「いやー、それにしても、細川さん。あんな所でよく歌えるよね。わたしなら緊張して声出ないよー」
矢野さんが、キラキラした目で私を覗き込んでくる。
「上手かったよねー、うたー。びっくりしちゃったよねー」
三村さんも、のんびりとした口調で同意する。
「…………ありがとう」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど細く、掠れていた。
しかし、その短いやり取りの間に、私の脳内CPUはフル稼働して状況を整理していた。
* * *
(状況、把握。この二人は夏休み中、ライブハウスに来ていたんだ……)
合点がいった。
そして同時に、心臓の奥が焼けるような羞恥心に襲われる。
間違いなく、才川さんの仕業だ。
彼女のことだから、「私の友達、みんな呼んじゃった!」なんて笑顔で言っている姿が容易に想像できる。
集客活動として見れば、身近なところから攻めるのは正しい戦略なのだろう。
でも、私にとっては、それは落とし穴以外の何物でもなかった。
これまでステージの上で、知らない大人たちの前で、開き直って絶叫してきた。
それは「誰も私の日常を知らない」という防波堤があったからだ。
それなのに、あんな、自分をさらけ出すような姿をクラスメイトに見られていたなんて。見知らぬ人たちに聞かれるのとは、次元の違う恥ずかしさがある。
(おのれ、才川奏……。こんな落とし穴を無自覚に掘っておくなんて、やっぱりリア充は恐ろしい……!)
穴があったら入りたい。
いや、むしろ自分で穴を掘ってそこに避難したいくらいだ。
私が心の中で理不尽な怒りと羞恥に悶えていると、その穴を掘った張本人が、太陽のようなオーラを振りまきながら登場した。
「おっはよー! 茜にみーな! あ、細川さんだ! おはよーっ!」
弾けるような笑顔。
廊下の温度が五度くらい上がった気がする。
「おーす。ライブ見たぜ奏ー。すごかったな、二人とも」
「はよー」
矢野さんと三村さんが、自然な様子で才川さんと合流する。
「……おはよう」
私はいつもの無表情で、才川さんに挨拶を返す。
どうやら私の推理は、これ以上ないほど的中していたようだ。
才川さんは自分の交友関係をフル動員して、ライブの動員を増やしていたのだ。
彼女はバンドのリーダーであり、バンドの将来を真剣に考えている。
集客活動に対して文句をつけるのは、人を集めることに何も貢献していない私のような未熟者がしていいことではない。
私が犯人の罪を心の中で「不可抗力」として不問に付そうとした、その時だった。
「ふふ、細川さん」
不意に、才川さんが私の両肩にそっと手を置いた。
そのまま、ほんのりと甘い香りを漂わせながら、軽く抱きつくような距離感まで顔を寄せてくる。
「次の休みにレコーディングだから、予定は空けておいてね?」
その声は弾んでいて、まるで楽しい遊びの約束を告げる子供のようだった。
クラスメイトの視線がある前での、この親密な接触。心臓がドクドクと不規則なビートを刻む。
夏休み中の活動を通して、こういう物理的な距離の詰め方は徐々に増えてきていた。
正直に言えば、嫌な気はしない。
むしろ、こんな地味な私を「仲の良い友達」として扱ってくれることが、心の片隅でほんの少しだけ、くすぐったいような嬉しさを生んでいる。
……が、それはそれとして。
(……レコーディング?)
聞き捨てならない単語が飛び出してきた。
レコーディングって、あの、プロの歌手がスタジオでヘッドホンをして歌う、あのレコーディングのことだろうか。
いやいや、早すぎる。
まだライブ経験だって数えるほどしかないのに。
「……」
聞き返したい。
でも、矢野さんや三村さんの視線がある。
結局、私は何も言えないまま、こくりと一度だけ頷いた。
逃げるように、それでいて表面上はクールさを装いながら、私は教室の扉へと吸い込まれていった。
二学期初日。
私の「透明人間」としてのスクールライフは、どうやら正式に幕を閉じてしまったらしい。




