第14話 嵐の前のバックヤード
夏休みの太陽がアスファルトを容赦なく焼き焦がす八月。
遠方に住む凛ちゃんと、そのクラスメイトの小清水涼音さんが、ついに私たちの住む街へとやってきた。
目的はただ一つ。
地下ライブハウス【GUREN】での、私たちのバンドデビューを果たすためだ。
二人の交通費はすべて、才川さんが申し出て負担しているという。
「私の動画チャンネルの収益があるから、新幹線代くらい余裕よ!」
才川さんはあっけらかんとそう言っていたが、私の知らないところで莫大なお金が動いている現実に、私はただただ圧倒されるばかりだった。高校生が自分の稼ぎで他人の交通費をポンと出せるなんて、どういう世界線なのだろう。
さらに、宿泊先についても格差を見せつけられた。
小清水さんは、駅前の高級ホテルに滞在するという。
しかも自腹で――。
「最近はインバウンドの影響でホテル代が高騰していると聞きますが、このくらい大したことありませんわ」
お嬢様らしい優雅な微笑みで言い放つ彼女からは、富裕層の圧倒的な余裕が漂っていた。私の知らない世界で、みんなが当たり前のように動いている。激しい疎外感と、住む世界の違いにクラクラしてきた。
一方、凛ちゃんは私の家に寝泊まりすることになった。
うちは母子家庭で、母は仕事で家を空けがちなので部屋には余裕がある。
小清水さんにも声をかけたらしいが、「細川さんとは直接お会いするのは初めてですし、ご迷惑はおかけできませんわ」と遠慮されたらしい。
正しい判断だと思う。
私のような陰キャの巣窟に、あんな輝かしいお嬢様をお招きするなど恐れ多いにもほどがある。
問題だったのは、才川さんだ。
「えっ!? 凛子さんが細川さんの家に!? ずるい! 私も、私も細川さんの家に泊まりたいわ!」
凛ちゃんが私の家に泊まると知るや否や、才川さんはなぜか強欲な駄々をこね始めたのだ。
「は? お前まで行ったら流石に迷惑だろ。細川のお母さんだってびっくりするわ」
金剛寺さんが呆れ顔で首根っこを掴んで止めてくれたおかげで、私の平穏な生活はなんとか守られた。
金剛寺さん、あなたは本当に私の守護神かもしれない。
* * *
私たちのバンド『KANADE-ZAKURA』は、メンバーが遠距離に住んでいるという致命的なハンデを抱えている。そのため、全員で音を合わせる機会は数えるほどしかなかった。
しかし、いざスタジオで音を出してみると、そんな不安は杞憂に過ぎないことがわかった。
凛ちゃんのベース、小清水さんのピアノ、金剛寺さんのドラム、そして才川さんのギター。私以外の四人は、紛れもなく「一流のプロ級の怪物」だったのだ。
ぶっつけ本番に近い状態でも、彼女たちは阿吽の呼吸で完璧なアンサンブルを作り上げていく。
――私以外は。
「……」
私は部屋の隅でギターを抱えながら、胃の腑がギュッと縮み上がるのを感じていた。
なぜ、こんな怪物たちの真ん中に、私のような凡人が立っているのだろう。
私だけが、場違いな一般人だ。
何かの手違いで神々の宴に紛れ込んでしまった村人Aだ。
いつか「お前、実は全然弾けてないし歌えてないじゃん」と指摘されて、追放される日が来るのではないか。
そんな恐怖で、吐き気が止まらなかった。
金剛寺さんのコネのおかげで、私たちは既存のバンドの合間に飛び入りで数曲演奏させてもらえることになっている。
チケットノルマなどの過酷な条件は免除されていた。
しかし、それはつまり「実力だけで客を納得させろ」というプレッシャーの裏返しでもあった。
* * *
そして、逃げ場のないまま、運命のライブ当日を迎えてしまった。
凛ちゃんと共にライブハウスへと向かう。
案内された控室は、地下特有の淀んだ空気が溜まっていた。壁には無数の色褪せたバンドのフライヤーが貼られ、長年染み付いたタバコのヤニと、数え切れないほどのバンドマンたちが流してきた汗の匂いが混ざり合っている。
分厚い防音扉の向こうからは、現在ステージに立っている他のバンドの重低音が、地鳴りのように腹の底に響いてくる。
圧倒的なアウェイ感。
ここは私の居場所じゃない。
狭い控室の長椅子で、私たちは出番を待っていた。
小清水さんは、合流してからずっと凛ちゃんにベッタリと張り付いている。
尊敬の眼差しを向けるお嬢様。
同級生からあんな風に慕われるなんて、流石は凛ちゃんだ。
一方、私の隣の磁場は異常だった。
「細川さん……いよいよね」
なぜだか、才川さんが私の隣にピタリと密着して座っているのだ。
「……」
近い。
そして、暑い。
真夏の地下室というただでさえ蒸し暑い環境で、体温の高い才川さんが肩が触れ合う距離に陣取っているのだ。
正直、ちょっと離れてほしい。
風通しを良くしてほしい。
だが、そんなことを言えるわけがない。
「ちょっと、暑いから離れて……」なんて、コミュ障の私に要求できるわけない。
私はただ無言で、視線を真っ直ぐ前に向けたまま我慢の時を過ごしていた。
そんな私のことを、チラチラと盗み見ている。
「ねえ、細川さん」
不意に、才川さんがとんでもない爆弾を投げ込んできた。
「最初のMC、何を話すか決めてある?」
――は?
私の思考回路が、一瞬でショートした。
* * *
えっ?
エムシー?
MCって、あの、曲の合間に「イェー! 盛り上がってるかー!」とか「次の曲は、私が失恋した時に書いた曲で……」とか、そういう気の利いたトークをするあれのこと?
私が?
この、『クラスで一日に一言も発しない』私が――?
見知らぬお客さんたちの前で……?
いや、無理無理無理無理無理無理無理無理!
絶対に無理でしょ!
「人前で喋る」――それは陰キャにとって「死」と同義である。
歌うのだってすでに精神の限界を突破しているというのに、その上フリートークまでするんですか?
ステージ上で無言で踊れと言われた方がまだマシかもしれない。
…………それもまあ、きついか。
ともかく、私の顔面からスッと血の気が引き、呼吸が浅くなる。
完全なフリーズ状態だ。
「……」
私が白目を剥きかけて硬直していると、向かいの席から凛ちゃんがスッと助け舟を出してくれた。
「才川さん。桜は極度の人見知りだから、人前で話すのは無理よ。歌っているときやギターを弾いているときは自分の世界に入ってるから平気なんだけどね」
凛ちゃん……!
あなたは神か。仏か。
私の生態を完璧に理解してくれている幼馴染の言葉に、私は内心で滝のような涙を流して拝んだ。
「えっ!? そうだったの!?」
才川さんは驚いたように目を見開き、そして、ハッと何かに気づいたような顔をした。
「ご、ごめんなさい、細川さん。私ったら、細川さんがボーカルだから当然MCもやるものだとばかり……。でも、そうよね。細川さんのような孤高の天才は、安っぽい言葉で自分を語ったりしない。すべては『歌』で表現する。そういうことだったのね……!」
(いえいえ、違います。ただコミュ障なだけです!)
私の心のツッコミは、当然彼女には届かない。
「じゃあ、無理はさせられないわね。――最初のMCも、曲間のつなぎも、私が担当するわ! 細川さんは、ただ歌うことだけに集中して!」
ドン!
と自分の胸を叩き、才川さんが力強く名乗りを上げてくれた。
その顔には、「私が愛する桜さんを守ってみせる!」という、謎のヒロイン(あるいはナイト)属性に目覚めたような使命感が満ち溢れていた。
「……(コクン)」
私は無言で、深く頷いた。
助かった。
本当に、九死に一生を得た気分だ。
私は、皆の優しさによって生かされている。
だが、安堵と同時に、どす黒い自己卑下の感情が心の底から湧き上がってくるのを感じた。
(ボーカルのくせに、MCできないなんて。やっぱり私、このバンドにいらない子なんじゃないか……?)
せっかく危機を回避したというのに、私の精神状態はどこまでも低空飛行を続けていた。
無言で自己嫌悪の沼に沈み込んでいると、ガチャリと重い扉が開いた。
「『KANADE-ZAKURA』の皆さん、出番です。ステージ袖へお願いします」
ライブハウスのスタッフの声が、無機質に部屋に響き渡った。
ビクッ、と私の肩が跳ねる。
ついに、来てしまった。
「よーし、行くぞお前ら! かましてやろうぜ!」
金剛寺さんがスティックを鳴らして立ち上がり、凛ちゃんと小清水さんも気合いの入った顔で頷く。
「行きましょう、細川さん。私たちの伝説の始まりだわ!」
才川さんが、私の手を取って引っ張り上げる。
ドクン。ドクン。ドクン。
心臓の音が、異常な速さで耳の奥に響いている。
BPMが、みるみるうちに上がっていく。180、いや、200を超えているかもしれない。
汗の匂いと、繋いだ手のぬくもり。
鳴り止まない重低音。
防音扉を抜け、薄暗い通路を歩く私の足取りは、まるで処刑台へと向かう死刑囚のように重かった。
逃げ場のないステージの照明が、すぐそこまで迫っている。
私は、自分の意志とは無関係に回り続ける巨大な歯車にすり潰されるような絶望感を抱きながら――
スポットライトの当たる場所へと一歩、足を踏み出したのだった。




