第10話 上の空と無言の肯定
ノートパソコンからメトロノームのクリック音が鳴り、それを合図に私たちの初めてのセッションが始まった。
金剛寺さんの刻む重いキックドラムが、ライブハウスの床をビリビリと震わせる。
それに呼応するように、画面の向こうから通信のタイムラグを微塵も感じさせない凛ちゃんの正確なベースラインがうねりを上げて絡みついた。
リズム隊の二人が作り出す土台は、まるで分厚いコンクリートのように盤石だ。
その上で、才川さんのギターが爆発した。
煌びやかで、それでいて芯のあるディストーションサウンド。彼女の指先から放たれるフレーズは、圧倒的なエゴイズムと天才的な華やかさを併せ持っていた。
そして何より驚いたのは、画面の向こうにいる小清水さんだ。
三つ編みのツインテールにしたふわふわな髪を揺らしながら、彼女の細い指がキーボードの上を滑っていく。
幼い頃からクラシックピアノを習っていたという正真正銘のお嬢様。
ロックなんて初めて弾くと言っていたのに、彼女のプレイは恐ろしいほど正確無比だった。
それでいて、ただのお行儀の良い演奏ではない。激しいビートの波に呑まれることなく、激しくも優雅な旋律をきっちりとねじ込んでくる。
(すごい……)
私は自分の弾くバッキングギターの音を重ねながら、無心でそのアンサンブルに食らいついていた。
五人の音が一つに混ざり合い、これまでに経験したことのない分厚い音の壁となって空間を満たしていく。
ゾクゾクするような高揚感と、同時に、ひんやりとした恐怖が背筋を駆け上がった。
* * *
最後のジャーン!という音が鳴り止み、アンプのノイズだけがジリジリと残る。
「ふぅ……」
「結構……いや、かなり――いいんじゃねーか?」
スティックを回しながら、金剛寺さんが満足そうに呟いた。
画面越しの凛ちゃんも、小清水さんも、そして隣でギターを下ろした才川さんも、みんな達成感に満ちたキラキラとした笑顔を浮かべている。
だが、そんな中で――
私だけが、濃密な焦燥感の底に沈み込んでいた。
(みんなのレベルが、高すぎる……!)
ギターの弦を押さえる左手が、微かに震えていた。
私だって、そこそこ弾けている自負はあった。
毎日一人で、何時間も練習してきたのだから。
でも、彼女たちという「怪物」の中に混じると、自分の実力不足は火を見るよりも明らかだった。
金剛寺さんのドラムはプロ顔負けの重さだし、凛ちゃんのベースは職人技。小清水さんのピアノは音楽のエリート教育の結晶だ。
そして何より、うちのバンドには才川奏という絶対的な天才ギタリストがいる。
ギターは才川さんが一人いれば、それで完璧なのだ。
(私がここでチャカチャカとリズムギターを弾く意味って、あるの……?)
急速に不安の渦に飲み込まれていく。
高校生のバンドだし、楽しければそれで良いという緩い集まりだということは分かっている。
けれど、こんな圧倒的な完成度を見せつけられたら、どうしても考えてしまう。
みんな、口には出さないけれど、心の中では「細川のギター、ちょっと邪魔だな」と思っているのではないか。
凛ちゃんだけは絶対にそんなことは思わないだろう。
でも、他の三人は分からない。
(このままじゃ、いつか「お前、マジ使えねー」「あなたは、クビよ」「このバンドから追放するわ」って宣告される日が来る……)
そんな公開処刑のような屈辱を味わうくらいなら、いっそ、自分から身を引くべきではないだろうか。
『みんなの足を引っ張りたくないから、私は抜けるね』
……うん、これなら角が立たない。
私は脳内で、悲劇のヒロインめいた脱退届の文面を推敲し始めた。
(追い出される前に、自分から追放されよう)
私が一人で深刻なインポスター症候群(自己評価の低さからくる思い込み)を発症し、思考の迷宮に没頭している間も、他の四人はこれからの活動について活発なミーティングを続けていたようだった。
「――だから、やっぱりそこは……」
「ええ、私もそう思いますわ」
「じゃあ、これで決まりってことで……どうかしら、細川さん?」
不意に、才川さんから声をかけられた。
「……っ!」
肩がビクッと跳ねる。
やばい。
全く話を聞いていなかった。
今の話題は何だ?
ライブの曲目?
それとも練習日程?
ここで「え? ごめん、何の話?」なんて聞き返したら、「実力も劣っているくせに、ミーティング中も上の空だったのか」と呆れられてしまう。
ただでさえ、実力のない邪魔者かもしれないのに――
これ以上、印象を悪くするわけにはいかない。
「……」
ここは、すべてを理解しているという大人の余裕を見せるべきだ。
私は極力無表情を保ったまま、こくん、と深く――力強く頷いた。
「じゃあ、ボーカルは、細川さんで決まりね!」
才川さんが、パンッ!と嬉しそうに手を叩いた。
「え?」
つい、間抜けな声が漏れた。
ボーカル?
誰が?
「まあ、細川がいいって言うなら、任せてみるか。でも、無理はするんじゃねーぞ。お前、たまに具合悪そうにしてるからな」
金剛寺さんが、気遣うような、でも完全に信じ切った目で私を見る。
「凛子さんが推薦する細川さんの実力、とても楽しみですわ」
画面の向こうで、小清水さんがふんわりと微笑んだ。
三つ編みのツインテールが上品に揺れている。
「……」
私は、自分の置かれた状況を必死に逆算した。
才川さん、金剛寺さん、小清水さんのセリフを総合すると、恐らくこういうことだ。
私が「脱退届」を脳内で練っている間に、バンドにボーカルを入れようという話になった。
そこで、私の過去を知る凛ちゃんが「桜が歌えばいい」と私を推薦した。
才川さんがそれに食いつき、私に最終確認をしてきた。
そして私は、あろうことか、それを「無言で力強く肯定」してしまったのだ。
「細川さんの声、絶対素敵だわ! あー、早く聴きたい!」
才川さんが私の顔を下から覗き込みながら、目をキラキラさせている。
この人はたぶん――バンドのクオリティとかどうでもよくて、皆で楽しく演奏ができればそれで満足なのだろう。
歌唱力は求めていない。
でも、だからといって、恥をさらしたいとは思わない。
しかし、もはや後の祭りだ。
(違うの……、私はただ話を合わせて頷いただけなのに!)
脳内で絶叫するが、声には出ない。
確かに、歌を歌うこと自体は、多少は上手な方だと思う。
凛ちゃんの家は楽器店で、お母さんが昔、ガールズバンドのベースをしていたバリバリのバンドマンなのだ。
小学生の頃、凛ちゃんと一緒にギターとベースを習い始めた時のこと。
私の極度の人見知りと、消え入りそうな蚊の鳴くような声を見かねた凛ちゃんの母は、私を捕まえてこう言った。
『桜ちゃん、そんなか細い声じゃ――ちょっと心配ね』
それからというもの、私はギターの練習よりも先に、強制的にボイストレーニングと発声練習を課される羽目になった。
腹式呼吸の徹底、走り込みながらのスケール練習、お腹の上に図鑑を乗せての発声。スパルタという言葉すら生温い、(私にとっては)完全な軍隊式ボイトレ地獄。
「私はギターが弾きたいだけなのに!」と泣きながら腹筋をした日々のおかげで、私の声帯は無駄に鍛え上げられ、ある程度の歌唱力を手に入れてしまったのだ。
(けど……歌えることと、人前で歌うことは全くの別問題よ!)
私はボッチの陰キャだ。
目立たず、ひっそりと、アンプの影に隠れてリズムギターを弾くのが私のささやかな夢だったのに。
バンドのボーカルなんて、一番目立つ「顔」じゃないか。
凛ちゃんや、凛ちゃんのお母さん以外に、自分の本気の歌声を他人に聞かせるなんて……羞恥心の極致だ。
服を脱いでステージに立つようなものである。
「さあ、細川さん! マイクの準備はできてるわよ!」
「おう、いっちょ気合い入れていこうぜ」
だが、事態はすでに私の「無言の肯定」によって、強固な決定事項としてロックされてしまっていた。
画面の向こうでは凛ちゃんが『ふふっ、桜の歌、久しぶりに聴けるの楽しみ』と慈愛に満ちた笑顔を向けている。
(ああ、凛ちゃんが私の敵に回るなんて……)
逃げ場なんて、どこにもなかった。
才川さんから強引にマイクを手渡され、私は絶望のどん底で、鋭い胃痛に顔をしかめることしかできなかった。




