(28)戦場.3
真っ暗闇な部屋に一人僕は蹲る。時の流れが停滞したかのような静寂だけが僕を覆い隠している。
――この感じ。扉の向こう側から漏れてくる物音にやけに鼓膜を逆撫でされるこの感じ。僕が存在するこの部屋のみが、世界から取り残されているかのような冷ややかな感触。心や表情や声帯が凍り付いていくかのような触感。周囲の意義的真空に否応も無しに内側を奪われていくような虚無感。狭い空間に広がる果てしない孤独。……まただ。僕はまた、こんな窮屈な場所で、何も出来ずに、ただ時が過ぎ去るのを、運命が過ぎ去るのを待っている。また、何も出来ずに――。
抱えた膝に顔を埋めて世界を遮断する。このように塞ぎ込む事でのみ僕は、僕を覆い包む様々な苦痛から自分の心を守る事が出来る。ただ心を空っぽにして、空っぽになる事に抗わないで、手放して、塞ぎ込んで、全てを見て見ぬ振りをする。これはあの部屋で過ごす中で会得した僕の最悪な防御姿勢であり、癖である。まさか、また一人部屋に閉じ込められて、こんな風に情けなく蹲る事になるだなんて。どうしたって僕はこうなる運命なのだろうか。別に今更凹んだりしない。奇跡に酔うほど僕も馬鹿じゃない。ただ少し逸れた道筋が、通常通りに戻っただけなんだろう。何て事はない。それが僕の運命だとしても、幸い僕は慣れきっているのだから。
――これから、どうなるのだろうか?空っぽな僕の内側に、漠然とした問いが漠然と生まれる。
僕はこれからどうなるのか?ラルレインが来ているって事は、ヴィットという組織は恐らくアイツの息が掛かった組織なのだろう。このまま事が進めば、僕はあの塔のあの部屋に引き戻されてしまうかもしれない。……嫌だな。なんて言ってみたって、僕にはどうする事も出来やしないのだが。でも大丈夫だ。トモエさんがきっと救い出してくれるから。あの日あの部屋から連れ出してくれたみたいに、きっと今回も僕を救い出してくれるから――。
『――トモエお姉さんはもう帰ってこないよ――』
突如、マヨイさんの言葉が脳裏に蘇る。
『――君は売られたんだよ――』
いや、そんな事ない。トモエさんは必ず迎えに来るって言っていたから。だから僕はトモエさんを信じて待っていればいいのだ。
『――君を囮にしてトモエお姉さんは逃げたんだよ――』
耳を貸す必要はない。何故ならこれらはマヨイさんが僕を唆す為に吐いた嘘なのだから。これ以上思い出す必要はない。
『――何でそう言い切れるの?――』
……でも確かに、そうかも知れない。だってトモエさんに僕を連れ歩く利点など殆どない。別に僕を売ったところでトモエさんは困る事など何もないのだ。僕はただ、虛空の欠片を運ぶのに便利な存在と言うだけで、別にそれだって、僕が居なくても誰でもいいし、最悪トモエさんだけでも遣り繰りは出来る。思えば全て、あの人の気紛れなのだから、僕が売られたって何ら不思議でもないんだよな。
『――信じられるの?――』
そもそも信じるって何だ。人を信じたところで、それは個人の自己満足で、結果が伴う事なんてそう滅多にありはしないのではないか。
『――私の言っている事が嘘だって証拠はあるの?――』
そんなもの何もないに決まっている。そんなものがあったら苦労なんてしないさ。内側が、凍て付いていくのを感じる。
『――君を置き去りにして逃げたのに?――』
『――信じられるの?――』
マヨイさんの言葉が、空っぽな僕の内側をよく反響して、絶え間なく繰り返し繰り返し耳に触れる――。
『――君はね、まだ小さいから正常な判断が出来ないんだよ――』
『――トモエお姉さんは逃げたんだよ――』
撥ね除けようとも、何度も何度も再生される――。
『君の事を置き去りにした非道いトモエお姉さんの事なんか忘れて――』
『――君は売られたんだよ……』
マヨイさんの冷徹な表情、淡々とした言葉、冷たい声色、眼差し。それが何度も何度も繰り返し繰り返し僕の内側に響いて、広がって、増大して、僕の心をぐるぐると抉っていく――。
『――私の言っている事が嘘だって証拠はあるの?――』
『――何でそう言い切れるの?――』
『――証拠はあるの?――』
――そうだ。考えてみれば結局どっちだって良い事じゃないか。どうせ僕には何も出来やしないんだから。トモエさんが僕を売っていたのなら僕はあの部屋に引き戻されるだけだし、売っていないのなら助けてくれるかもしれないし、売っていなかったとしても助けの手が届かないかもしれない。そしてそれらに僕の意思など関係ない。――運命。全部どっちだって良い事だったんだ。そうだ、どっちだって……。
『――リオ!――』
たった一滴、曇天を切り裂く陽光のような、眩しくも温かい声が、僕の名を呼ぶ。この声は、トモエさんの声。僕の記憶の中のトモエさんが、僕の名前を呼んでいる声。僕は咄嗟に顔を上げるが、目の前にはただ闇だけが広がっていた。
――思い出される。トモエさんの顔。これまでの旅の中で見てきた、トモエさんの色んな表情。笑ったり、怒ったり、苦しそうな顔も、悔しそうな顔も。笑うだけでも、あの人は実に様々な笑い方をする。悪魔みたいに口角を吊り上げたかと思えば、陽だまりのように優しく微笑んだり、子供みたいに無邪気に笑ったり、僕を試すように嫌らしく微笑むこともあるし、まるで自分自身を鼓舞するように挑発的に笑うこともある。様々なトモエさんが僕の脳裏に蘇る。
――会いたい。やっぱり会って確かめたい。本当に僕を売ったんじゃないって、本人の口から聞いて安心したい。また意地悪されてもいいから、トモエさんの笑顔をもう一度見たい。そう願ってやまない。僕は再び膝に顔を埋める。
「トモエさん……。苦しいよ……。貴方を信じられないのは、とても苦しい……」
誰に言うでもなく、一人呟く。
「また、僕を連れ出してくれますよね……?あの日みたいに、盛大に、運命を撃ち破って、僕をこの部屋から、きっとまた救い出してくれますよね……?」
僕の心からの願いを、切なる望みを、声に出して祈る。声は闇に消える。だとしても、僕に出来る事はこれくらいだから――。
『――殺すの――』
また、マヨイさんの言葉が脳裏に蘇る。
トモエさんが死んだらどうしよう……!マヨイさんたちに殺されてしまったら……?そんなの嫌だ!絶対に嫌だ!トモエさんがいない世界なんて、そんな世界で僕は一人どうすればいいんだ……。どう生きればいいんだ……。トモエさん、あなたが居ないと僕は、生きていけないんだ……。――生きて、必ず生き延びて、また僕を救い出してください。あの部屋に再び幽閉されたとしても僕は、あなたが同じ世界に居るのなら耐えることが出来る。きっとあなたが助け出してくれるって希望が持てる。でもあなたが死んでしまったら、僕はもう耐えられない、生きていけないんです……。お願い、お願いします……!何でもいいから、僕の何を差し出してもいいから、絶対に生き延びてください……!トモエさんっ……!
ふと頭を過るは、未来を視るということ。もし未来の僕の視界にトモエさんの姿が映っているのなら、トモエさんは生き延びて迎えに来てくれるってことではないだろうか?もしそんな未来が視えたのなら、僕は安心してここで待つことができるのではないか?方法も実に簡単だ。虛空の欠片を少し肌から離す、それだけだ。それだけで結末を全て知ることができる。そんな考えが頭を過るとほぼ同時に、僕の中に強烈な拒否反応が起こる。仮にそんなことをして、もし行く末に悲劇的な結末が待っていたら、そんなの事前に知りたくない。知るのが怖い……。僕は頭を過った甘い考えを容赦なく叩きのめした。
僕は祈るしかない。僕には、祈ることしか出来ない。余計なことはしなくていい。ただひたすら耐えるんだ。トモエさんの無事と、迎えに来てくれる未来を信じて。僕にはそれしか出来ないのだから――。
それでいい。それだけでいい。それでいいのだ。
「……同じじゃないか」
ふと、そう呟いた。意図せず、僕はそう呟いていた。それは、ついさっきから今に至るまで、僕の心の深層を脈々と流れていた本音。これを地表に出してしまったら、僕自身が決壊しかねないと抑え込んでいた本音。何も出来やしないのに、生意気にも口に出してしまった本音……。
――これでは、同じじゃないか。あの日々と、トモエさんと出会うまでの、死んだような日々と何も、何も変わらないじゃないかっ……!!何もせずに運命をただ受け入れて、僕は本当にそれで良いのか?……良い訳がない。このままじゃ、トモエさんが殺されてしまうかもしれないんだ。どうにかしないといけない。少なからず、こんな所で蹲っている場合ではない。まずは何とかしてこの部屋から脱出しなければ――。
――身体が、動かない。立ち上がれない。どうして……?
頭で分かっていることに、身体が付いて来ない。自分の手が震えていることに気付く。どうなっているのだ?体の不調?否、体に特段の異常は見当たらない。では何故立ち上がれない?まるで、自分とは全く別の意思が僕の体に棲み着いているような感覚。そんなこと言っている場合じゃないのに。トモエさんが殺されちゃうかもしれないんだぞ。立ち上がるんだ。立ち上がって、僕の手で運命を変えなくちゃ。しかし、身体はどうしたって、頑なに動こうとしてくれない。
『――見て見ぬ振りをするなよ――』
……誰っ?――誰だお前は!?何者だ!?
『――笑わせないでよ。本当は分かっているんだろ?――』
……あぁ、分かるさ。この声が、他ならぬ自分の声だって……。
『――なら話が早い。僕はお前を否定する僕だ。何があってもお前を立ち上がらせる訳にはいかない――』
……何で!?意味が分からない!お前も僕なら分かるだろ!?僕にとって、トモエさんより大切な存在なんていないことを――!
『――そんな事、勿論分かっているさ。僕だってトモエさんは大好きだ。でも、それは半分強がりだ。では何故、僕は立ち上がれないのだと思う?――』
それは、お前が邪魔をするからっ――!
『――違うね。僕はお前だ。この意味、分かる?――』
――分からない。
『――僕に嘘を吐くのかい?本当は分かっているから、そんなに歯切れが悪いんだろ?……そうだ。お前は本当は、立ち上がりたくなんてないんだ。本当は何もせずに、ただ事が自分に都合良く動いてくれないかって、そんな甘い甘い事を願っているんだろ?――』
……、……。
『――黙らないでくれよ。寂しいじゃないか――』
……違う。僕は、僕は自分の手で運命を変える。変えられる強い僕になるんだ。だから、邪魔をしないでくれ……。
『――だから言っているだろ?それだけがお前の本心なら、僕は存在していないし、わざわざお前の邪魔もしていない――』
……。……、……。
『――まぁーた黙りか?……まぁいい。少しは考えてもみろよ。まず、この部屋からどう脱出するつもりなんだい?僕の両手には固い手錠が掛けられているし、唯一の出入り口のノブは分厚い氷に覆われている。窓も小さいのしかないし、おまけに部屋中真っ暗闇。頑張ってみた所で、結果は分かりきっているんじゃないの?――』
……それは、やってみなくちゃ分かんないだろっ……!?
『――粘るね。じゃあ仮に部屋を脱出できたとしよう。この部屋を脱せました。さて、無力な僕に何が出来るのかな?相手はあのラルレインとマヨイさんだ。その二人相手にちっぽけな僕が何か出来るとでも?いや、まさか。万が一にもそんな事は有り得ない。ついさっきだって、マヨイさんに恐れを成して、躾けられた犬っころみたいに素直に言う事に従っていたじゃないか。そんな臆病者に運命を変えられると本気で思っているのかい?――』
……うるさいっ!
『――そもそもだ。運命は変えられるって言ったって、例えばあの塔から脱出した時、僕は何かしたか?僕はただ、奇跡的にトモエさんと出会えて、奇跡的にあの部屋から出してもらえただけの存在で、結局僕自身が自ら何か出来た訳じゃないだろ?勘違いするなよ。僕は何も変わっていない。あの日々から何も。結局僕には何も出来ないんだ。違うか?ただ周囲を行き交う強風に流されるだけの塵芥の分際で、調子に乗ってんじゃないよ恥ずかしい。結局何も出来やしないんだ。僕には何も出来ない。そうだろ?――』
……そうかもしれない。いや、そうだ。勘違いだ。僕はまだ、一人では何も出来ない。あの日だって、トモエさんが背中を押してくれたから、その風に乗って僕は足を踏み出せたに過ぎない。全くその通りだ。でもだから、だからこそ今変わらなくちゃいけない。トモエさんを失ったら、本当に全部終わってしまうから。何も出来ないかもしれない。でも、もしかしたら何か出来るかもしれないじゃないか。僕がその場に存在することで、何か運命が変わるかもしれないじゃないか。だから今、変わるんだ。今、立ち上がるんだ……!
『――綺麗事言ってんじゃねぇよ。お前だって薄々分かってんだろ?そんな事、有り得ないって。違うんだよ、人間としての根本的なデキが。僕とトモエさんとでは、何もかも違う。ずっと近くで見てきた僕だ、身に沁みている筈だ。何か出来る人間。何も出来ない人間。僕はどっち側だ?そんなの火を見るより明らかな事だ。空っぽな僕に何が出来る?何が出来るって言うんだ?なぁ?!――』
……そんなの結果論じゃないか。今まで何も出来なかったからって、これからも何も出来ない訳じゃない。トモエさんのことを近くで見てきたから分かる。どうにかしようとするからどうにかなるんだ。だから、どうにかしてみるんだ。
『――どうにかしてみる?どの口が言っているんだよ。今までずっと見て見ぬ振りをしていた僕が、諦めて目を逸らし続けた僕が、そんな付け焼き刃の猿真似でどうにか出来る訳がないだろう!?いい加減にしろよ!?生半可に希望を抱くから傷付くんだろ!?何かするから何も出来ない事を思い知らされる!!本気をぶつけるから自身の無力を痛感する!!そうやってお前は、また死んだような毎日に戻りたいのか!?――』
――戻りたい?そんな訳ないだろう!!もう認めるよ!!お前が言ったこと全部!!全部僕の本心だ!!傷付きたくない!!傷付くくらいなら何もしたくないし、何もせずに事が都合良く運ぶことを本気で願ってやまない!!この情けないの全部が僕だ!!……でも、だけど、傷付くからって、傷付くことを避けていたら、僕は一生傷付いたまんまなんだ!!僕はあの日々の傷を越えて自由になりたい!!その為に今、動かなきゃいけない!!立ち上がらなきゃいけないんだ!!
『――嫌だッ!!……嫌だ、絶対に!!……もう嫌なんだよ。自分の無力さをこれ以上味わうのはもう嫌だ。今までだって、何かしたって結局何も出来なかったじゃないか。……分不相応に部屋を出れたとして、目の前でトモエさんが殺されてしまったら、お前はどうするんだよ!?そんな光景を目の当たりにしたら、お前はもう生きていけないだろう!?……何もするなよ。何も出来ないんだから。もう希望なんて持たないでくれよ。何も出来ないことを思い知るのは、もう嫌だ……。そんな状況が怖くて堪らないんだよ……。頼むから、もうやめてくれよ……。お願いだから……――』
――そうか。そうだったのか。お前は、ずっと僕を守ってくれていたんだな。そうやって臆病になって、ずっと傷付いた僕を傷から守ってくれていたんだな。それなら僕が為べきことは、臆病なお前を黙殺することじゃない。僕は僕の弱さを抱き締めた。そして感謝を告げた。今までずっと必死に守ってくれてありがとうと。終わりの見えない闇の中で、いつも庇ってくれてありがとう、と。だってソイツは、僕が認めてやらないと、ずっと孤独のままなんだ。するとソイツは静かに頷いて、そっと一歩だけ退いた。手と手を取り合ったまま――。
僕は漸く立ち上がった。手は相変わらず震えている。心臓が胸の奥でのた打ち回っている。でも、逃げ腰ではなかった。怖くても、やらなきゃいけないことがある。鎖された扉の向こう側、この部屋を飛び出した外の世界で、僕がやらなきゃいけないことがあるんだ。僕は前を向いて、僕を覆い包む闇のその先をやっと見据えた。




