(閑話)迷い雨と灰空の港町
――あれから七日後。
明朝・カピバ駅前――。薄暗くとも濃灰の空の下、カピバ駅を出る疎らな人々の中にラルレインとマヨイの姿もあった。
「――やっと、解放されたあぁぁ……!」
マヨイは両腕を高く伸ばし、森林浴でもしているかのような清々しい顔でゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。その表情は晴れやかながら幾分か老けているようにも見えた。
「すまなかったな。色々と迷惑を掛けた」
ラルレインは至っていつも通りだった。そんなラルレインをマヨイは鋭く睨み付ける。その目付きは切実だった。
「全くです。本当に、貴方は普段どうやって生活しているんですか?缶詰も自力で開けられないなんて……」
「うむ……。指が、引っ掛からないんだ。あの、開けるところに」
「まぁ、貴方に繊細さを期待しても仕方がないという事はこの一週間でよくよく判りましたよ」
マヨイの表情には諦めと疲れが染み付いていた。
「誠に情けない話だが、この一週間本当に世話になった。感謝する。この恩は必ず仕事で返す。トコヨノの負担が減るように精一杯を尽くすとここに誓う」
「はい。是非そうして下さい」
マヨイはラルレインの馬鹿正直な顔を見ることなく、適当に往なして先を歩き出した。その足取りに毅然さは消え失せていた。
「さぁ、先を急ぎますよ。ここは貿易港です。逸早くターゲットの足取りを掴まないと、捜索範囲が大変な事になってしまいます」
「そうだな」
ラルレインもマヨイのあとに続く。
「そう言えば、トコヨノ。あの猫はどうしたんだ?」
「ジジすけの事ですか?それなら、私の鞄の中に……」
マヨイは肩掛けの鞄に視線を下ろす。そして顔を真っ青にする。
「――ジジすけ?あれ?ジジすけが居ない!嘘?いつの間に――!」
「(ジジすけ……?猫のことか?)」
ラルレインは、右往左往するマヨイを眺めながら、心の中でそう呟く。
「え?どうして?――貴方、ジジすけを見ていませんか?」
マヨイは藁にも縋る気持ちでラルレインの顔を見上げる。
「いや、気付いた頃には気配はなくなっていたが――」
「そんな……。ジジすけ……。私のジジすけ……」
マヨイは荒野の枯れ木宛らの哀愁で立ち尽くす。
「ジジすけ……、私の心のオアシス……」
「仕方ない。猫は自由な生き物だからな」
「はぁ?」
ラルレインの一言にマヨイの攻撃性が瞬時に息を吹き返した。
「巫山戯ないで下さい!貴方に何が判るって言うんですか!貴方の世話を一週間も、一週間も強いられたこの私の気持ちが!そんな気が狂いそうな私の心に寄り添い癒してくれたジジすけの存在の大きさが――!」
マヨイは齧り付きそうな勢いで訴える。
「すまない!すまなかった……」
「そもそも!一週間もあってベッドの下ろし方も判らない!窓の開け方も判らない!トイレの流し方も判らないって!一週間も毎日毎日、いい加減覚えて下さいよ!なんで私は毎朝毎朝、貴方の見事な一本糞を見なければならないんですか――!!」
その後約15分ほど、マヨイの大憤慨は続いた。
海岸線へと繋がるケバケバしい街並みは静まり返っていた。点々とすれ違うのは夜勤明けと思しき疲れ切った人々のみで、街灯にはハエの群れが群がっていた。
ラルレインとマヨイはそんな街並みを真っ直ぐ通り抜け、港に向かって直進する。
「聞き込みはいいのか?」
「こんな明け方に聞き込みをしたって無駄です。それより今は、貿易港に直接当たるべきです。もし今日出港する船に紛れ込んでいたら、そこを叩かないと手遅れになります」
「成る程な」
「急ぎますよ」
船着き場――。空も薄暗い時間帯だと言うのに、多くの船は出航に向けて積み荷作業を行っていた。
ラルレインとマヨイはその乗務員たちに聞き取りをして、黒髪の少女と子供の目撃情報を多数得る。
「――やはり、船を用いて国外へ逃げようという魂胆でしょうか?」
マヨイは背後のラルレインに問い掛ける。しかしラルレインからの返事はない。振り返ると、ラルレインはある船の積載現場を注視していた。
「――あの、聞いていますか?」
「あ、すまない。聞いてなかった」
当たり前のようにそう言うラルレインに、マヨイは呆れ顔を浮かべた。
「どうしたんですか?何か手掛かりでも見付けました?」
「……いや。ただ気配を感じた気がするのだが、……気のせいか?」
「何なんですか、その“気配”って?――あとはそこの豪華客船で聞き取りは終わりなんですから、気を緩めないで下さい」
「ああ、そうだな」
ラルレインは尚も豪華客船へ物資を積み込む現場を暫く注視していた。
豪華客船前――。乗り込み用の階段に備え付けられた呼び鈴を鳴らすと、暫くしてある女性が船より降りてきた。
「はい。どうかなされましたでしょうか?」
豪華客船の制服を身に纏った女性は、目の下にクマを作って、瞬きも多く、表情も弛んで、要するに明らかに眠そうだった。
「すみません。こんな早い時間に」
マヨイは心の底からそう思った。
「いえ、お構いなく。えっと、それで、ご用件は――?」
「はい。私たち、人捜しをしておりまして、十代後半くらいの黒髪の少女と、薄黄緑髪の七~八歳くらいの子供の目撃情報を聞いて回っているのですが――」
「あぁ!それでしたら――!」
女性は寝不足特有の異常なテンションで食い気味にそう言った。
「目撃したんですか!?」
「はい!昨日の夕方頃に!えぇと確か、船の行き先を調査しているって言って、ちょっと怪しいなぁって思っていたんですよ!」
「そうですか。他に少女達は何か言っていたりしませんでしたか?」
「えぇと、あぁそうそう!この豪華客船がカウカウに寄港するって私が言ったときに凄いテンション上がってて、それが怖くって、凄い印象に残ってます!」
「――成る程、カウカウですか……」
マヨイの目元が一瞬冷え切る。
「見付けたな。手掛かり」
ずっとマヨイの後ろで黙って立っていたラルレインが、マヨイにのみ聞こえる声で静かにそう言った。
「そうですね」
マヨイも振り返り、ラルレインと目を合わせる。その瞳は焼けるように冷たく澄み、そして鋭く研ぎ澄まされていた。
「因みに、この豪華客船って、いつ頃出港予定なんですか?」
「え?出港ですか?今日のお昼13時頃ですよ」
「そうですか……。――こんな早くにご対応頂きありがとうございました。では、私たちはこの辺で。それでは、お体の方ご自愛下さい」
ラルレインとマヨイはその場をあとにした。
朝日が空と海を照らし始めた頃、ラルレインとマヨイの二人は、他には誰もいない海岸の砂浜に腰を下ろしていた。付近では、錆びた漁船がかなり内陸まで打ち上げられ、見るも無惨に転覆していた。
「これからどうするんだ?」
ラルレインはマヨイの横顔に問い掛ける。
「ここで取り逃がす訳にはいきません。どうにかしてあの豪華客船に侵入しターゲットに接触、例の異能無効化の宝玉を保持する子供の身柄確保を目指します」
マヨイは昇る朝日を眺めながら、すっかり厳しい表情を浮かべている。
「接触時の具体的な算段は船内に侵入してから考えるとして、今はどのようにあの豪華客船に侵入するか作戦を立てましょうか」
「そうだな」
ラルレインは腕を組んでマヨイの眺める朝日を見つめた。一方のマヨイは、ラルレインの横顔を訝しそうに見つめる。
「そうだなって、貴方に何かいい案でもあるのですか?」
「うむ。侵入するなら、警備の居ない壁を斬って道を作ればいい」
「なに言っているんですか?そんな事したら船が沈みますよ?」
「何故だ?あんなに大きな船なんだから、少しくらい穴を開けても崩れはしないだろう?」
「貴方、船がどのように水上に浮かんでいるのか、理解していますか?」
「……確かに、あんな大きな船が何で水の上に浮いていられるんだ?考えたこともなかったな。不思議だ」
「はぁ……。兎に角却下です。侵入については私が考えますから、貴方は私の目の届く範囲内で大人しくしておいて下さい」
その時、ラルレインのお腹から雷鳴の如く音が鳴った。
「――トコヨノ。俺はお腹が空いた」
「あのっ……!私は貴方の保護者じゃないんですよ……!」
砂浜より少し歩いた場所にあった食事処にラルレインとマヨイは入店する。店内は蛻の殻だったが、店主と思しき男性が一人で店内の清掃をしていた。
「お客さんかい?いらっしゃい」
「準備中でしたか?」
「いや、少し待ってくれるなら何か出すよ」
店主は清掃の手を止めると厨房に向かった。
厨房に立つと、店主は慣れた手付きで下拵えを始める。
「お客さんは、ご夫婦かい?」
店主は手早く下拵えをしつつ二人に話し掛ける。
「はい。夫婦です」
マヨイの言葉にラルレインも静かに頷く。
「そうかい。何処からお出でで?」
「デッパリアの郊外ですね」
「あら、そうかい。珍しい事もあるもんだね。昨日も帝都から来たっていうお客さんが来ていてね――」
店主の言葉に、マヨイの目元は鋭く尖る。
「――もしかして、黒髪の……?」
「そうそう!何だ、知り合いだったのかい!」
「ええ、まぁ」
「彼女たちにはホントに世話になったよ!」
そう言う店主の表情は、マヨイの目には不自然に思えるほど晴れやかなものだった。
「世話、ですか?」
「そうなんだよ。この店には暫くお客さんが一人も来なくてね。店の周囲の更地を見てもらえば分かる通り、再開発で誰も居なくなっちまって、来るのは立ち退きを迫る輩だけで、それで俺は腐っちまっていたんだが、でも彼女たちが気ぃ遣って少し大袈裟に旨い旨いって食べてくれる姿を見て、自分が厨房に立っている理由を思い出したんだ。それで、店を畳む決心が付いた」
「そうなんですか……?」
「ああ、ここはもともと漁師の村でね。今じゃ見る陰もなくなってしまったんだが、それに俺は固執してたんだ。だが、誰も来ない場所で店を続けたって、あの景色を守ってる事にはならねぇって気付いた。必死に縋ったって、思い出は戻らないし、でも消えるワケでもない。そう彼女たちに気付かせてもらったんだよ。だから腹括って、どっか別の場所で心機一転、新しく食事処を始めようと思ってね」
そう言う店主の顔は清々しさと熱意に満ちていた。
「すまないね。お客さん聞き上手だから、思わず自分語りをしてしまったよ」
「いえいえ……」
マヨイは謙遜しつつ、ラルレインと視線を合わせた。マヨイのもの悲しい視線、それを受け取ったラルレインの妙に頼もしい視線。そのやり取りは一瞬だったが、二人の意思は嘗てなく通じ合っていた。
ラルレインはそっと手を挙げ、仄かに和やかに微笑んだ。
「大将!俺はとても腹が減っている!とても大盛りで頼む!」
「あいよっ!任せておきな!」
店主の瞳には燃えるような活気が満ち、頬には笑みとやる気が蓄えられる。店主のその表情を見て、マヨイもまた微笑んだ。
朝食を済まし、二人は海岸線を歩く。
「時代の亡霊、と言ってしまえば、乱暴に事は済んでしまうんでしょうが……。――ああやって翻弄される人々の上に私達の生活は成立するのだと、私達は忘れてはいけませんね」
少し先を歩くマヨイは俯き気味のまま、煮え切らない表情を浮かべる。
「そうだな」
それっきり会話は途切れる。暫く、景色のみが流れる。潮騒がやけに鼓膜に響く。
「しかしあの泥棒、意外といいヤツなのかもしれないな」
ラルレインはマヨイの物思いを正面から打ち砕くように、実に暢気にそう言った。
「え?何ですか急に……?」
マヨイは顔を上げてラルレインの顔を振り返る。
「ちょっとそう思っただけだ」
ラルレインはいつも通りの異様に真剣な顔をしている。マヨイの表情には冷徹さが蘇る。
「関係ありませんからね」
マヨイは前を向き直して、言葉を続ける。
「いくら善人だろうが、バイオレータ―である以上、態度を軟化させる訳にはいかない。これは、この世界秩序の根本に関わる問題です。増して、今回のターゲットは既に、その能力を行使して泥棒行為を行っている犯罪者。間違っても同情するような真似はしないで下さいよ」
「当然だ。奴は俺が捕まえる」
ラルレインの言葉には寸分の淀みも存在しなかった。
「まぁ、意気込むのは勝手ですが……。それでは、豪華客船侵入作戦を練りましょうか。ちゃんと聞いていて下さいよ」
「うむ」
二人は豪華客船の停留する船着き場へと向かった。
ラルレインとマヨイが、トモエとリオネット両者と対峙するのは、それから約13時間後のことである――。




