(17)異邦.3
朝、目を覚ます。体が動かない。体が動きたくないと言っている。布団の中の温もりが、僕の体をベッドに縛り付けている。顔に当たる空気は冷たい。起き上がる為には、僕はこの温もりを自ら破り、冷たい外気に身を晒さねばならない。不条理だ。僕は朝飯前にも関わらず、この不条理に立ち向かわねばならない。――なんて、くだらないことを思い浮かぶほどには既に目は覚めていた。窓から差し込む鬱陶しい光に、僕は僅かに瞼を上げた。
僕は違和感を感じない違和感に気が付く。朝ベッドに一人、とても当たり前のこと過ぎて暫く気付かなかったが、トモエさんが隣にいない。どこに行ったんだろう?僕は首を持ち上げて周囲を見渡す。トモエさんの姿は机の方にあった。例の謎の海兵のような服を着て、髪も綺麗に整えられて、机の上には荷物が纏められていた。トモエさんは窓から差し込む朝日を浴びて、荷物を満足げに見つめている。僕はその様に見蕩れる。何故かは分からない。ボロい宿、満足とは言えない朝日、変な服装と髪型、黒い髪、僕の知っている美しさとは一線を画している。それなのに僕は、どうしようもなくその様に吸い寄せられて、目を離せない。全てが淡く儚く僕の視界に映る。こんな景色をずっと見ていたい。その気持ちに気が付いて、僕は気付いた。ありふれた如何ということのない景色がかけがえなく見えるのは、僕が永遠を否定し終幕を認めたからなのだと。この美しさは切なさなのだ。そう思うととても悲しく、そして悲しみを忘れるほどにやはり美しい。
「――あ。なにぃ?ジーッとこっち見て……」
トモエさんが僕の視線に気付いて、快活に僕を揶揄う嫌らしい微笑みを浮かべた。
「すみません。とても綺麗だと思って――」
僕は起き上がる。上半身を起こし、ベッドから足を垂らす。それから、血の気が引く。いま僕は何て口走った……?
「――あの!ちが…違うんですっ!さっきのは、その……、変な意味じゃなくて――!」
僕は立ち上がって必死に弁明した。一気に目が覚める。
「えー?違うの?じゃあ、トモエお姉ちゃんは綺麗じゃないかな?」
嵌まった。僕は馬鹿だ。トモエさんは心底楽しそうに僕を観察している。僕は既にトモエさんの蜘蛛の巣に足を踏み入れているのだ。それもわざわざ自主的に。もう手遅れだ。僕はもう全身に絡み付いた糸の言う通りに踊るしかない。そう察する。
「綺麗です……」
「えぇ!?声が小さいなー!?」
このクソ悪魔めッ……!
「……綺麗ですよ!トモエさんはっ!」
トモエさんの表情は、まんまと為て遣ったりと言わんばかりに、恐ろしく楽しそうに綻んだ。
「だよね~。そうだよね~。リオ君よくできましたぁ~!」
トモエさんは僕に歩み寄り、僕の頭を撫でた。屈辱である。
「いい?トモエお姉さんは美人なんだよ。肝に銘じておくように!」
「は、はあ……」
僕に何を教え込ませようとしているんだ、この人は……。
「……本当は、トモエさんを含んだ風景が綺麗だと思ったんです。朝日が差し込んで、トモエさんが立っている、この部屋の風景が」
「それは私が被写体として映り込んでいるからだね。私の存在が、このボロ宿さえも美しく見せちゃってるんだよ。私って罪な奴だね~」
「そ、そうですかぁ……」
その無敵の自信は一体どこから湧いてくるのだろうか。
「――って、そんなことより今日出発だからね。リオも早く準備!」
「あ、はい。分かりました!」
そうは言っても、僕に準備もクソもないのだが……。取り敢えず僕は洗面台とトイレに向かった。
適当に朝食を拵えて、纏められた荷物と黒い毛玉もといシュレディンガーを床に移動させ、僕らは机を挟んで向かい合って座る。机の上に並べられた食べ物は固いパンとミルクと林檎丸々一個と、あの頃に比べると非常に質素なものだった。僕はパンを千切って口に運ぶ。……口の中の水分が殆ど持っていかれる。
「あれ?」
と、トモエさんは僕を見て微かな声を上げた。僕は口元へミルクを輸送中の腕を止めた。
「どうかしましたか?」
「リオ、左手どうしたの?」
「あぁ――」
僕は左手のそれに一度視線を落としてから、手を開いてトモエさんにそれを見せた。
「虛空の欠片…です……」
僕は昨日からそれを手放せずにいた。寝ている間も、トイレの時も、ずっと強く握り締めていた。
「ずっと持ってたの?」
「まぁ、はい……」
「食べづらいでしょ。その辺に無くさないように置いておきなよ」
「いや……」
僕は開いていた左手を閉ざした。
「これはトモエさんがもとの世界に帰る為の大事なものですから、無くさないように肌身離さず持っていたくて……」
嘘を吐いた。嘘を隠す為に。自分でも驚くほど流暢に。些細な痛みは無視をした。
「リオ~!キミはなんていい子なの~!」
トモエさんは嬉しそうに僕の頭を撫でる。僕は笑顔を浮かべる。
「いえ、その……」
「でも、ずっと握ってちゃ不便でしょ。そうだなぁ……。――あっ。ちょっと貸して――?」
トモエさんの手が僕の左手に迫る。
「……分かりました」
僕は左手を開いた。僕の手から真っ黒な虛空の欠片が姿を現す。トモエさんはそれを抓んで持ち去った。その瞬間に頭が軽く痛む。そして未来が流れ込んでくる。……ラルレインの顔が、やはり奴の姿が脳裏に現れる。
「ちょーっと待っててねー」
トモエさんは床に散らばった金銀財宝の中から金色のネックレスを引っ張り出した。ダイヤモンドかと思われる宝石が一つだけ付いた気品のあるネックレスだった。トモエさんはそのたった一つのダイヤモンドを力尽くで取り外すと、空いた空間に虛空の欠片を填め込んだ。
「はい、これをリオくんに授けよう!」
トモエさんは席から立ち上がると、金銀財宝を避けて僕の背後に回り込み、僕の首にそのネックレスを付けた。
「良いんですか?このネックレス、貴重な物なのでは?」
「いいのいいの。ネックレスだって、あんな埃っぽいトコに仕舞われてるより、リオに使ってもらった方が本望だって」
「そうですか……?」
僕はネックレスの先の虛空の欠片に触れた。未来が消える。呼吸が通るようになる。しかし、これでは触れ続ける事ができない。これじゃ僕はまた……。――いや?僕はネックレスの先の虛空の欠片を襟の下に忍び込ませてみた。すると、うまいこと胸に虛空の欠片が触れた。未来も消えた。これなら――。僕は胸を撫で下ろした。
「……ありがとうございます!これなら、ずっと持っていられます!」
「うんうん!どういたしまして~!」
トモエさんは僕の頭をポンと撫でて、それから机の向こうに戻っていった。
部屋を出る。僕は一泊二日泊まったことになるが、それにしては別れ惜しさをあまり感じなかった。僕らは全ての荷物を背負い、空っぽになった部屋の扉を閉め、鍵を掛け、その扉を後にする。
トモエさんが受付で宿泊代を支払い鍵を返却すると、僕らは宿屋を出た。
「いやー、いい宿だったね」
トモエさんはリュックを背負い直し、歩きながらそう言った。因みに、金銀財宝やその他の荷物はトモエさんの異能によってどこかの仮置き場へと置換された。旅には最適な能力である。
「そうですか……?隙間風酷かったですけど……」
「そうだな」
突然、渋い声に共感される。気が付くと、先に窓から出ていたシュレディンガーが傍らについてきていた。
「夜は寒いし、床は軋むし、とても良い宿とは言えぬだろう」
この猫と同意見なのは癪だが、僕もそう思う。僕らはトモエさんの顔を見上げる。
「それはそうだけど、かなりお安く済んだからさ」
トモエさんは下品で強かな笑みを浮かべていた。
「そういうことですか」
「ケチな奴め」
「ああ?誰がケチだって?これは堅実って言うんだよ」
そうこう言っているうちに入り組み静まり返った薄暗い裏路地を抜け、明るく忙しない大通りに出る。
「第一、一銭も払わない猫の分際であーだこーだ言うんじゃねえよ」
「……」
シュレディンガーは人目に付く場所に出たせいか、喋ることを止めるが、何処となく不満げな雰囲気を漂わせていた。
帝都デッパリア中央駅――。キューソロジア帝国交通網の中心地で、その名に恥じぬ膨大な人の流れを日々支えている世界最大の駅である。僕らはその人流に揉みくちゃにされながら、何とか切符を購入し、プラットホームに辿り着いた。そこで奇跡的にも空席のベンチを発見し、僕らは二人揃って雪崩れるようにそこに座った。
「ああ……、人、多すぎぃ……」
トモエさんはベンチの背もたれにへばり付くように凭れ掛かり、首を後ろに垂らしていた。
「そ…そうですね……」
トモエさんでさえこの様子である。僕はもう一歩を動く気力さえも枯渇していた。
「――そう言えば、アイツは?シュレディンガーの奴は?」
トモエさんは背中をベンチから引き剥がして僕の顔を覗く。
「あ。そう言えば――。居ませんね……」
「マジかよあのクソ猫ぉ……」
トモエさんは再び背もたれに凭れ掛かった。
「探すんですか?この人混みの中から……?」
僕は血の気が引いた。それは不可能なように思えた。目の前も後方も分厚い人の流れが絶え間なく入り乱れ、その様は激流を思わせる。その中から小さな黒い毛玉を見つけ出すなど、到底不可能だ。
「いや、もういいや」
「え?」
「ただの猫じゃないんだから、自分で電車乗って追いかけて来るよ」
「えぇ、いいんですか……?」
それは流石に可哀想な気がした。
「いいよいいよ」
トモエさんは雑に答えた。
「今までも何度か逸れたことあったけど、普通にフラッと現れてたし、まぁ何とかなるって。――てか、探せる気しないし……」
「それは、そうですよね……」
僕らは息を揃えて黙り込んだ。人混みを眺めて。
警鐘が鳴る。目の前の線路に汽車が滑り込む。黒い車体の汽車は汽笛を鳴らしながら減速し、ホームの沿って停車すると、靡いていた煙を立ち上らせてもう一度汽笛を鳴らした。
「うわぁ、蒸気機関車だぁ!初めて見たかも!」
トモエさんは興奮気味に立ち上がる。
「そうですか……」
まったく、元気な人である。汽車は順に客車の戸が車掌によって開けられていき、中から人が引くほど流れ出てきた。
「私たちが乗るのって、コレ?」
トモエさんは汽車を指差してベンチに座る僕に振り返る。僕は切符を確認する。
「いえ、それではないですね」
「あ、そうなの」
トモエさんは落ち着きを取り戻し、僕の隣の空席に戻ってきた。
「私たちが乗るのはいつ来るの?」
僕は再度切符を見てから、張り出されている時刻表を眺める。
「えぇーっと、僕らが乗るのは直行カピバ行きですから、大体17分後に来る汽車ですね。これの次の次のやつです」
「カピバぁ?」
「セナ海に面した港町です。帝都デッパリアから真っ直ぐ北西に向かうとカピバの港に辿り着きます。まぁ、少し角度はズレているんですが……」
……ていうか、じゃあこの人はどうやって切符を買ったんだ?
「なるほどね~。港町ね。――ってことは、海鮮とか食べられるかな?」
「まぁ、食べられるんじゃないですか?港町ですし」
そんなこと聞かれても、僕が知る由ないだろう。
「パンフレットとか売ってないかな~?」
「観光目的じゃないんですから」
「えぇー、どうせなら楽しまないと損だよ」
「うーん、まぁ……」
思えば確かに急ぐ理由もないわけだが……。何か、不誠実な気がしてならない。目の前に停車する汽車は再び高々と汽笛の音を上げ、搏動のような音を徐々に早めながら加速していき、駅をあとに走り去っていった。そうだ、そもそも僕に選択の権利などないじゃないか。トモエさんが出発の汽笛を鳴らしたら最後、誰だってこの人を止めることなんて出来ないのだ。僕はそれに従うだけだ。
「カピバかぁ。楽しみだね!」
トモエさんは目を輝かせて微笑んだ。
「そうですね」
だからこそ僕はついて来たんだ。この人なら、あらゆる壁を越え僕を遠くへ連れ出してくれる気がしたから。今更そう思い直すと、何だか妙に可笑しくなってきて、僕は口角が上がってしまった。
更にもう一つ汽車を見送り、若干遅れの19分後、僕らの乗る汽車が駅に停車した。それは寝台列車だった。というのも、カピバへ移動するには蒸気機関車であっても7日も掛かるのだ。
僕らは事前に指定されている、部屋のような空間に腰を下ろした。カーテンを開けて入って正面に窓、両側に椅子が向かい合い、折り畳み式のベッドが天井近くに備え付けられている。贅沢は言えないが、はっきり言ってかなり狭い。小柄な僕でさえ、トモエさんと向かい合って座ると足下に余裕はなく窮屈に感じる。トモエさんは背が高いほうとはいえ、それでも大人の男性と比べると少し小さい。これが大柄な男性二人で座るとなると、無理じゃないかと思う。それもこれが何日も続くのだ。考えるだけで相当に過酷だ。
「狭いね」
トモエさんは何の躊躇もなくそう口走った。
「まぁ、そうですね……」
「結構高かったのになぁ……」
トモエさんは残念そうに車窓の枠に頬杖を付いた。そもそも盗んだ金なんだから、残念そうにするのはどうなんだと思う。
「あなたの異能なら取り戻せるんじゃないですか?」
「いや、流石にそれはよくないよ」
盗むのは良くて、払った金を盗るのは良くないとは、この人はいったいどんな倫理観をしているんだろう。まぁ、僕も対価を払わずにこの空間に居る同罪なのだが……。
汽車が動き出した。徐々に早まる振動に揺られながら、僕は遠くに流れていくデッパリア城を見つめていた。僕は今日、僅かにずっと震えていた。ボロい宿屋を出た時も、トモエさんが切符を買っている時も、ホームで汽車の到着を待っている時も、人混みに揉まれている時は流石にそんな余裕なかったが、でも朝起きたその時から僕はずっと震えていた。この震えの正体は何なのか、この街を出られる喜びなのか、未知の土地に向かう不安なのか、それは今も判らないが、でも何故かとても自然なことのような気がして、ずっと自分で抱えていた。今になって、車窓からの流れる城下町の景色を眺めて、その震えが大きくなったが、立ち止まる気にはならなかった。僕は遠く離れていくデッパリア城を見つめていた。離れてしまえば、小高い丘の上に建つちっぽけな建造物に過ぎないように見えた。そう僕の目に映ったことが僕の背中を押した。震えはより大きくなった。
「ちょっとリオ、大丈夫?」
トモエさんが僕の手を取り、心配そうな顔で覗き込んでくる。僕はもう小さくなったデッパリア城からトモエさんの顔に視線を移した。
「大丈夫です。多分、武者震いみたいなものです」
僕は生まれて初めて、自分や誰かに言い聞かせる為ではない、心の底からの大丈夫を言えた気がした。きっと大丈夫。未来は分からないけれど、この人となら、トモエさんと一緒ならどこまでも行ける気がするんだ。どんな強敵が現れたとしても、どんな困難な状況でも、きっと越えられる。そう信じる希望と自信が僕の中に芽吹いていた。
デッパリア城下町・郊外――。蒸気機関車が田園地帯に煙を撒き散らす中、その土地の人々でさえ近付かないような寂れた木造家屋から二人の人間が姿を現した。一人は目深に白い帽子を被り眼帯で右目を覆った細身の女。そしてもう一人は全身の筋肉が盛り上がった大柄の男であった。二人は当たり障りのない目立たない格好で長閑な田園風景に完璧に溶け込んでいた。ただ、男の方はその上に何故か、裏地が赤い純白のマントを背負っている。男は異常に真剣な面持ちで通り過ぎていく蒸気機関車を見送ってから、ここからはかなり距離のあるデッパリア城に視線を移した。
「待っていろ少女泥棒。次は負けない――!」




