魔窟
「お琴ちゃんは、変わってるねえ。全然涙をみせないし、かと言って、あれやこれや、あたしに聞くこともしない。普通は、そのどっちかなんだが…」
老人と少女が二人。
連れ立って街道まで出ると、近江屋三八は、さも感心したような口調で琴の顔を覗き込んだ。
「じゃあ聞きます。おじいさんは、誰なんですか」
もう一人の娘、亀が、少し驚いた顔で琴を振り返った。
桜井家を出てからここまで、一言も口を利かなかった彼女が最初に発した言葉だった。
三八は、この問いを自分の素性を質すものと受け取った。
「あたしゃまあ、説明するのは難しいが、言ってみりゃ、そう、口入屋みたいなもんかね。だが、あんたみたいに淡々と親御さんに別れを告げる娘さんは初めてみたよ。いや、さすが、お武家の…」
「私たち、何処に向かっているんでしょうか」
三八のお追従を最後まで聴かず、琴は質問を重ねた。
「江戸だよ。お江戸は深川。行った事あるかい?きっとビックリするぜ」
多少鼻白みながらも、三八はなんとか笑顔を保ってそう答えた。
琴にも近江屋三八が志筑を発つ時に云った言葉の意味がやっと解った。
琴と亀が最後にたどり着いたのは、深川洲崎。
数年後に、広重の手になる江戸百景「深川洲崎十万坪」で、全国に名を馳せる景勝地だ。
水運の要衝としても知られ、洲崎橋の付近には、御船奉行屋敷や御船手役所、御船番所といった役所が林立している。
町には積荷を扱う商人の他にも、役人や、船頭、船大工、荷役作業を行う人扶など、様々な階層の人々が行き交い、活況を呈していた。
「どうだい。びっくりしたろ?」
三八のあとを付いて歩く娘達は、初めて目にする景色や人波に圧倒されていた。
しかし、そこからほんの少し行くと、程なく町の景色は、まったく別の様相を呈しはじめた。
今まで歩いてきた場所が、華やかなこの町の表の顔であるとすれば、そこに現れたのはまさに、暗く、妖しい裏の顔だった。
ここ洲崎遊郭は、琴や亀のような若く美しい娘達と、海縁で働く男達の金を飲み込む魔窟だった。
置屋「岩鶴」は、その街の薄暗い一画にあった。
通りには、同じような格子窓を設えた店が軒を連ね、それぞれの屋号を掲げた高張提灯の明かりが、往来する遊女たちの華やかな着物の文様を浮かび上がらせていた。
「岩鶴」の女将は、不機嫌そうな顔をした初老の女だった。
近江屋三八の顔を見るなり、その表情は更に不機嫌さを増し、手でハエを追うような仕草で、三八に玄関払いを食わせた。
「あんた、まだやってたのかい?悪いけどさ、うちは間に合ってるんだよ」
「なぁ女将、そこは昔のよしみじゃないか。まぁ、見るだけでも見てくんない。あんたの言う通り、あたしもこの商売長いけどね、今度のは、なかなかお目にかかれないマブだぜ?」
女将は、近江屋の後ろから少し離れておずおず出てきた二人を一瞥した。
「…へええ」
ほんの一瞬目があった時、女将の顔に浮かんだ笑みを琴は見逃さなかった。
「入んな!」
三人は中に通されたが、琴と亀を玄関の土間に立たせたまま、三八と女将は奥の座敷でヒソヒソ話を始めた。
所在無げな亀のすがる様な視線を感じた琴は、一言で自分達の置かれた状況を説明した。
「値交渉中みたいよ」
実際の州崎遊郭は、明治に入ってから出来たそうです。
なので、ここに出てくるのは架空の町ってことになります。
なんか、とってつけたようですみません。