依頼
母屋の表座敷に顔を出すと、二人の男が良之助を出迎えた。
「本日より門下に加わりました、上野国利根郡の浪士、中沢良之助と申します」
良之助は、おそらく年配の方が千葉であろうとあたりをつけて挨拶した。
「総師範の千葉周作です。まあ、楽にして座りたまえ」
年配の男は、軽く会釈して席をすすめた。
良之助はおずおずと二人の前に鎮座すると、用件をうかがうように、先ほどから隣に控えている男と千葉の顔を代るがわる見比べた。
「ああ、彼は元塾頭の清河正明君だ」
千葉が男の方を見やって言った。
「先生、私先頃、清河八郎と名を改めました」
鼻筋の通った切れ長の目の男が、千葉の紹介を正した。
「そうだったか」
「申し上げるのは、これで三度目ですが…」
清河は、不満げな面持ちで千葉を一瞥して、良之助に向き直った。
「いきなり話の腰を折ってすまんね。最近、道場を持つことになって、それを機に改名したんだ。中沢君のご実家も、道場をやっておられるとか」
「貧乏道場ですが。父の孫右衛門が利根法神流を継承しております」
「では、ゆくゆくは君が跡を継がれるのか」
「そのつもりです。尤も、このご時勢ですから、どうなるか分かりませんが…」
「お父上の為にも、精進なされよ」
千葉がはじめて微笑んだ。
「時に、中沢君。江戸に着くなり申し訳ないが、一つ頼みがある」
千葉はそう言って、清河八郎に目配せした。
清河は懐から折りたたんだ紙を取り出して、良之助に手渡した。
「君は、そういったものを目にしたことがあるか」
「拝見」
良之助は何かの書簡らしきものに目を通した。
鈴木大蔵は、吉原遊郭にある茶屋の出窓に腰掛けて、ぼんやりと道行く人々を眺めていた。
散茶女郎の小亀は、大蔵が盃を空けると頃合いを見て酌をしながら、黙って傍に控えていた。
小亀にとって大蔵は馴染み客で、こうして昼間からやってきて酒を飲む時は、何かしら考え事がある時だとよく知っていた。
「大蔵様、お寒くないですか」
小亀は大蔵の邪魔をしたくなかったので声をかけるのを躊躇っていたが、開け放ったままの窓から入る冷気が身体に障るのではないかと心配になって、つい禁を破ってしまった。
「ああ、すまない。寒かったかい」
「私は平気ですけど、お酒を召し上がって、ずっとそんな処にいらしたら、お風邪をひいてしまいますよ」
大蔵はにっこり微笑むと、窓をしめて畳の上に胡坐をかいた。
「退屈な客で申し訳ない」
「いえ、私こそ、何か気の利いたお話でもできれば大蔵様の気も紛れるんでしょうけど…」
「あなたの沈黙は、思いやりがあって、いっそ心地いいよ」
可憐な芸妓は大蔵の顔を見て小首を傾げた。
それは、恋をする女の目だった。
しかし、大蔵は、懐中から何やら書簡を取り出すと、今度はそれを熱心に読み始めて、また黙り込んでしまった。
小亀は一つ溜息をつくと、燈明皿に火を灯して、窓を閉めて薄暗くなった大蔵の手元を照らした。
大蔵は難しい顔で、その短い手紙を何度も何度も読み返しては、眉根を寄せている。
小亀は最前と同じように盃に酒を注いで、その美しい横顔に見入った。
「あなたはたまにそうやって、じっとわたしの顔を見つめることがあるけど、なぜだろう」
大蔵は書簡から目を上げずにたずねた。
「す、すみません。気が散りますか」
「そうでもないが」
大蔵の目は、まだ文字を追っている。
「あの、実は昔…」
小亀は何か言いかけたが、大蔵の言葉がそれをかき消してしまった。
「ここに何が書いてあると思う」
二人の間にしばらく沈黙があって、
「なに」
と、大蔵が促した。
「いえ、大したことでは。それより、そのお手紙の話…」
「ああ。これはあのペリーが書いた手紙だそうだ」
「まぁ!」
「厳密には、それを我々の言葉に訳したもんだが。興味あるかい?」
「ええ。もう、紅梅姐さんなんかは、毎日黒船の話ばかりしています」
大蔵は小亀の目を見据えたまま、盃をあおった。
「…書簡にはこうある。昨年来、各国からの通商貿易の申し出について、幕府が国内法を盾に、これを退けていることは誠に遺憾である。『開国』は、諸国からの強要ではなく、言わば国家が本来あるべき姿であって、この天理に背くならば、我々は武力をもって幕府の間違いを糾すまでである」




