第5話 水路に消えた王女
地下水路の奥は、さらに暗かった。
壁際に沿って進むうち、通路が次第に狭まり、天井が低くなっていく。水の匂いが濃くなり、流れは速い。
ラズは足を止め前方を見た。
先は行き止まりではない。だが、構造が変わっている。鉄格子が嵌め込まれ、通路そのものは塞がれていた。格子の向こうへ続く暗闇があるのに、こちら側からは通れない。
代わりに、水だけが格子の隙間を通って流れ出ている。流れは速く、落ちれば確実に流される。追ってくる者にとっても潜るのは自殺行為に近い場所だ。
ラズは振り返りアリスを見た。
彼女は薬瓶を胸に抱いたまま、息を整えている。傷口が痛むのか、表情は厳しいままだ。
「ここで暗殺部隊を巻きます。打ち合わせ通りに動いてください」
ラズが囁くと、アリスは頷いた。
そして、ラズは迷うことなく流れる水面に飛び込み――溶けるように影へと吸い込まれて姿を消した。
足音が次第に近づいてくる。
たいまつの光が水面にちらつき、アリスは眩しさで目を細めた。複数の影が揺れ、低い声が水路に反響した。
「いたぞ」
仮面の男たちが狭い通路に現れた。先ほど襲って来た連中と同じ服装と仮面。
「第一王女、確認。これより始末する」
それは死刑宣告。
アリスにもはや逃げ道はない。背後は鉄格子。前方は暗殺部隊。横では濁った汚水が音を立てて流れ続けている。腕は負傷し、立っているのが精いっぱいの状況。
それでもアリスは薬瓶を胸に押し当て、口元に笑みを浮かべた。
「私を殺してなにが変わるの?」
問いかけに暗殺者は答えない。
「喋る自由すら与えられていないのかしら? 哀れなモノね」
震える声は、短剣が抜かれる音に声がかき消される。
術者の指先に魔法陣が浮かび上がり、光が灯る。
魔法だ。
光の粒が弾け、刃のように飛ぶ。
アリスは身を捻って避けるが、完全には避けられない。
ローブが裂け、右肩のあたりが赤く染まる。
「っ!」
痛みの息が漏れ、大きくよろめいた。
視線が足元に落ちて膝が崩れる。右腕がだらりと降りて、指先から血が流れ落ちた。
「終わりだ。アリストリッド・アルゲンティア」
隊長格らしい男が言った。
アリスは苦し紛れのように身を引いた。背後の鉄格子に肩が当たり、金属音が鳴る。
ラズが影の中で指を動かしていた。
誰にも認識できない位置から影が伸び、等間隔に設置された薄暗い光を放つ投光器を破壊する。
「っ! なんだ!」
暗殺部隊が息を呑み、その瞬間に生まれた微かな隙。
「弾けろ!」
瞬時にアリスが魔法を唱えた。身構える者たち――だが、爆発したのは人ではない。横に流れる汚水だった。
激しい音を立てて水しぶきが天井まで到達する。
「なにをするつもりだ!」
暗殺者が動く。剣を構えて足を踏み出す。
しかし遅い。
アリスの身体が波打つ水面へと吸い込まれていく。
落水。
濁流が白く泡立ち、彼女の身体が汚水に沈む。
汚水に赤が広がる。血だ。水面が赤に染まる。
誰の目にも、深手を負った人間が流されたように見える。
だが、違う。
汚水の影に飛び込んできたアリスをラズは受け止める。震えた身体をしっかりと抱きしめて、息を潜めて気配を消し続けた。
代わりに影に仕舞っていた暗殺部隊の死体を水面に叩き出す。
暗殺者たちが水面を睨む。
「死んだか?」
「血が出ている。……影が上がるぞ」
暗殺者たちが鉄格子の向こうに流れる影を見た。
明かりがなく、その姿を確認するのは難しい。
「確実に殺す」
短剣が投げられ、鉄格子の隙間をすり抜ける。
流れる人影に突き刺さると、汚水を赤く染め上げた。
「念のためだ」
術者の指先に魔法陣が浮かび魔法が唱えられると――影が弾けた。
激しい爆音と水面が暴れて壁に叩きつけられる音。波打ちは流れ続ける汚水に飲み込まれ、すぐにいつもの排水処理に戻る。
「これじゃ死骸の確認は出来ないな」
「これだけやったんだ。確認する必要もないだろう」
誰も反論しない。
追う理由はないほど、汚水を流れる人影は跡形もなく消し去った。
「撤収する」
足音が引いていく。たいまつの光が遠ざかり、水面のちらつきが薄れていく。
ラズは影の中で、しばらく動かなかった。アリスの震えを押さえつけるように強く抱きしめ続ける。
暗殺者たちの足音が遠ざかっていく。たいまつの光が消え、人の気配が完全に消えた。
ラズは影の中で数呼吸ぶん待ってから、通路の影から姿を現す。影に手を着き、魔力を流して気配を探る。
暗殺部隊は完全に撤収したようだ。周囲に人の気配はない。
「もう大丈夫です」
影に手を突っ込み、アリスを引き上げる。
「大した魔法ね」
「便利ではありますね」
二人が影から完全に出た、その時だった。
――鐘が鳴った。
低く、重い音が、王都全体に広がっていく。地下にいるのに、胸の奥まで響くような音だった。
「なんの鐘だ?」
ラズは眉を寄せた。鐘の意味が分からない。昼を知らせる時刻ではないのは間違いないが。
「この鐘……」
濡れた前髪の隙間から見える、アリスの瞳が揺れる。吐息のような声で呟き、次の言葉が出ない。やがて、彼女はぽつりと落とした。
「王が……。父上が、死んだのね」
それは説明の言葉ではなく、誰に向けられたものでもない。自分が知る事実を、ただ口から零れ落としたかのような音だった。
アリスは膝から力が抜けたように、その場に座り込んだ。薬瓶を胸に抱いたまま、膝を抱えて丸くなり、視線を落とす。
ラズは、何も言えなかった。
何を言っても、アリスのためにならない。
そんな気がした。
「……まだ暗殺部隊がいるかも知れません。辺りを確認してきます」
やっと出たのは、そんな言葉だった。
一人にさせて、気持ちを整理する時間を作る。邪魔者はいない方がいい。
離れようとした瞬間。
「待って」
アリスの声に、振り返る。小さく震えた声音。命令でも懇願でもない。ただ、置いていかれたくないような声だった。
目が合っても、アリスは何も言わない。ただ、こちらを見上げている。
その瞳を見た瞬間、ラズの胸が苦しくなる。記憶が、嫌というほど鮮明に蘇る。
故郷が魔物に襲われ、ラズとレイが孤児になって間もない頃。避難所の片隅で、身体を寄せ合って震えていた。ラズがただ「トイレに行くだけだ」と立ち上がろうとした時、レイが泣きそうな顔で袖を掴んだ。
『行かないで』
その時の瞳と、同じだった。強がって、泣かないようにして。でも、今にも崩れてしまいそうな瞳。
ラズは何も言わずにアリスの隣へ戻った。濡れた石の上に腰を下ろし、短く息を吐く。
「影に他の人を入れると物凄い魔力を使うんですよ。だから、俺も少し休みます」
誰に対してなのか、何に対してなのかわからない。だが、言い訳みたいな言葉。
けれど、アリスは小さく頷いた。
しばらく、アリスの手が落ち着かないようにローブの端をいじり、指先を迷わせる。その細い指が、そっとラズの手を取った。
そして、ぎゅっと強く握った。
痛いほどの力だった。震えを押し殺す力だ。
アリスは顔を伏せ、泣かないように必死に堪えながら、呼吸を整えようとした。
鐘の音が、もう一度鳴る。
王都の上で、世界が変わっていく音がする。
ラズは何も言わないまま、握られた手を引かなかった。




