第32話 仮面の領主と第一王女
戦いから一夜明けた。朝の光は薄く、けれど温かい。
城の畳敷きの広間は障子が半分ほど開けられており、バステリオンが一望できる。
土塁の修復に動く人影。鍛冶場の煙。運ばれるルーガルの死体。水を求める列が途切れない。
低い卓の前に、シグレが座していた。刀は隣に備え、いつでも抜けるように。
その背後に側近が控え、微動だにしない。
アリスとラズが入室すると、シグレは丁寧に頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます。ゆっくりと休めましたか?」
「おかげさまで。早速だけど報告を」
「その前に」
シグレはアリスの言葉を遮り、腰を下ろすよう手で進める。
「結果を伝えさせてください」
アリスとラズが視線を交わし、並んで腰を下ろした。
シグレは二人の顔を見た後、まずはアリスに声を掛ける。
「客人。貴方様は軍勢の夜。いえ、月夜の軍勢を退けました。指揮は揺らがず、バステリオンは崩れなかった。住民の多くは貴方様を認め、既に頼る者すら絶えないほどです」
アリスは短く頷く。昨日の熱がまだ胸に残っているが、表には出さない。
「当然よ。やるって言ったんだから」
「素晴らしい実行力です」
シグレは次にラズへ向き直る。
「ラズ様。魔物の根を落としてくださったこと、感謝いたします。あれが残れば、一夜の勝利で終わっていました。しかし、ラズ様のお陰で暫く魔物は落ち着くでしょう」
「必要なことをしただけだ」
淡々と答えるラズに、シグレは頷く。
一拍置いて、シグレは改めてアリスを見た。
「客人。もう一度、問います」
仮面の奥の視線が、アリスを真っ直ぐ射抜く。
「貴方様は誰ですか?」
二度目の問い。
今度は試すためではない。確認のためだ。
アリスは、息を整える。
昨夜の戦場とは違う。ここは畳の上で、言葉が国を動かす場所だ。
「私は」
言いかけたところで、シグレがふっと首を傾げた。
「その前に」
丁寧な口調のまま、どこか楽しげに言う。
「眼鏡とカツラ、外された方がよろしいのでは? 馴染みすぎて、もはや貴方様の顔になっております」
「……からかわないで」
「からかってなどいません。真面目な提案です。こういう時は素顔を」
「わかってるわよ!」
アリスは小さく咳払いをし、眼鏡とカツラを外す。
頭が軽くなり、肩までの髪がほどけるように落ちた。
朝の光が金色の髪に反射する。アリスは乱れた毛先が気になって、指で梳こうとした。
「イオリ」
名前を呼ばれると、畳の端の影が揺れ、そこからイオリが姿を現す。
「は、はいっ!」
「客人の髪を整えてあげなさい」
「よ、よろしいのですか!?」
イオリはアリスの後ろに座り、恐る恐る問う。
「……お願いするわ」
言われ、イオリは影から出した櫛を持ち、髪を梳く。手つきはまだ不器用だが、真剣で、どこか楽しげだ。
整え終えたところで、アリスはもう一度咳払いをした。
「改めて答えるわ」
視線を上げ、はっきり言う。
「私は、第一王女――アリストリッド・アルゲンティア。本物のアリスよ」
室内が一瞬だけ静かになった。
側近の気配が、ほんの少しだけ固くなる。
シグレはその宣言に、嬉しそうに微笑む。
「知っておりましたとも」
「えっ? どういうこと?」
「貴方がこの街に来た、その日のうちに気づいておりました。ですが、私の言葉だけでは住民の心は動かせません。……ここは実力の街ですから」
そして、シグレはゆっくりと手を上げた。
「では私も、改めて」
仮面に指を掛け、外す。
現れた顔は、驚くほど若い。凛としていて、どこか柔らかい中性的な輪郭。
アリスの目がゆっくりと見開かれていく。
「……貴方、まさか」
記憶が繋がる。
シグレは淡々と名乗った。
「バステリオン領主。セツナ・シグレと申します」
側近が静かに頭を下げる。
ラズは無表情のまま、知っていたように頷く。
シグレは、アリスを見て言った。
「覚えていらっしゃいますか?」
「当たり前よ」
アリスの返事は即答だった。
「視察の時、案内してくれた……。セツナさんでしょ?」
シグレは小さく頷く。
「ええ。その、セツナ・シグレでございます」
伝え、シグレは懐かしむように外の街を見る。
「数年前、アリス様がこの街に来た時の事は、昨日のこと様に思い出せます。運が良いのか悪いのか、軍勢の夜が明けた翌日。石垣は崩壊し、建屋は焦げ堕ち、多くの民が傷に泣き、悲しみに包まれていたところに貴方様は現れました」
「ええ。そうね。そうだった」
「助けを出さない王族の第一王女が、戦いの後に視察に来たと、誰もが貴方様を敵視しました。魔物に襲われていた時には手を差し伸べず、終えてすぐに来たのですから当然です。中には貴方に刃を向ける者もいました」
「それでもシグレは私に教えてくれた。バステリオンの歴史と現状を。そして、この街を案内してくれたわ」
「それが私の役割だったので」
そう言って、シグレはアリスを真っ直ぐ見据えた。
「汚い言葉を浴びせられ、刃を向けられ、それでも貴方様はこう言った。『民を見捨てて築き上げた平和に意味なんてないって。私はこの街を見捨てません』と。そして今回も、貴方様は同じ言葉を使った」
朝の光の中で、その言葉だけが妙に重い。
「一語一句、同じでした。偽物がそこまで再現できるとは思えません。私はそこで確信しました。貴方様が本物のアリス様だと」
側近が、目を伏せる。
「それでも私は貴方様に試練を与えました。バステリオンは魔具の件でアリス様に感謝しております。しかしここは武力の街。認めさせるなら実力を示すのが一番」
シグレは視線を落とし、畳へ頭を下げる。
「第一王女様にこのような事を。無礼でした」
「やめなさい」
アリスが即座に遮った。
声は強いが、怒りではない。
「必要ない。シグレの判断は正しかった。貴方は私がアリスだと、確信だけで民の命を動かさなかったんだから。領主として、民を背負うものとして当然の事よ」
シグレの動きが止まる。
次いで、微かな安堵が滲む。
「相変わらず、お優しいですね」
「優しさじゃない。結果を鑑みての判断よ」
アリスは一歩踏み出し、手を差し出した。
「セツナ・シグレ。協力して。私は王都へ戻り、王の座を取り返す。父を奪った者を裁き、偽物を暴く」
言葉ははっきりしている。
昨夜の勝利で、重さが増した言葉だ。
「バステリオンをもう見捨てられる側にしない。私がこの国を変えてみせる。だから、貴方を。バステリオンを私に託して欲しい」
シグレはその手を見つめ、そっと握る。
「……承知しました。私は。いえ、バステリオンはアリス様に全面協力いたします」
丁寧口調のまま、言葉だけは鋼のように固い。
「バステリオンは実力の街。アリス様は結果を出しました。住民はそれを見た。兵はそれを認めた。信用は得ています。ならば、これ以上のない旗が立ちます」
「背負うわ。みんなのことを」
二人が視線を交わしたまま頷き合う。
次に、シグレはラズへ視線を向けた。
「ラズ殿。改めて礼を。貴方様が根を落としたことで、この街は時間を得ました」
「利害が一致してるんだ、礼はいらない。必要なのは協力だ」
ラズの淡々とした言葉が、場を整える。
アリスは小さく息を吐いた。
「ここからが本番ね」
「ああ。ようやく始まったところだ」
障子の向こう、街の音が途切れない。
それが答えだった。
バステリオンが味方になる。
戦いの翌朝。畳の上で交わされた握手が、この国を変える第一歩となった。




