第30話 勝利の夜
勝った。
そう口にした者は多い。だが前線の空気は達成感より疲労に包まれていた。
喜びもつかの間、すぐさま後処理の作業に入る。兵も住民も、いまは勝利を祝うより、手を動かしていた。
「負傷者は内側へ。歩ける人は水を回してください。援護班は魔具の状態を確認。偵察隊は周囲の警戒を」
アリスの声がバステリオンに響く。
落ち着いている。迷いはない。会議で決めた後処理までが滞りなく広まっていく。
それでも彼女の視線は何度も森の方角へ吸い寄せられた。
ラズはまだ戻らない。
バステリオンは守り切ることが出来た。しかし、兵は疲労で動けるものは少ない。この状況で森への援軍を送れば、他から魔物が来た場合、対処することは出来なくなる。
初めからラズの援軍を出すことは想定に入れていなかった。
月下の夜を防衛しきっただけでも御の字なのだ。
頭では理解している。しかし、落ち着かない。
班長のひとりが控えめに声をかけてきた。
「嬢ちゃん。負傷者の撤収は済んだぜ。……そういえばラズさんは?」
誰もが不思議に思っている。
ラズがこの戦いに参加しなかったことを。
特別任務があると周知はされていたが、それでもこの状況で姿を現さないのは不自然だ。
アリスは一瞬だけ間を置き、淡々と答えた。
「別行動って言ってるでしょ? 予定通り、後片付けを進めましょう」
言い切る。
それ以上の説明はしない。指揮をとるものとして、不安を悟られないように。
班長は「了解」と短く返し、去り際に「ラズさん無事かなぁ」と小さく漏らした。
その一言が、胸の奥に引っかかる。
シグレが門上から降りてくると、アリスに並ぶ。
「お疲れ様でした。よく持ちこたえましたね」
「ええ。……よく耐えてくれたわ。みんなのおかげよ」
アリスは言いながら、また森を見る。
「心配ですか? ラズ様が」
「そんなこと」
言いかけて、言葉が止まる。
仮面の下に隠されたシグレの瞳に、嘘は通用しないような気がした。
「……心配よ。けど、ラズならきっと大丈夫」
心強い言葉に、シグレの口元が僅かに緩む。
「信用しているのですね」
「ええ。ここまで二人で来たんだもの。信用してる。ラズが誰よりも強いって、私が一番知ってるもの」
森に向けられた凛々しい横顔に、シグレが頷く。
その時、微かな振動が地面を揺らした。
前線にいたアリスとシグレ、周りの兵が森を見る。
「な、なんだよ」
「嘘だろ。さすがにもうこねえよなぁ?」
不安な声が漏れ、静寂が広がるのは一瞬。息を呑む緊張感が辺りを包む。
闇の縁から、巨大な祖狼が姿を現す。
「ルーガル・ファウンダー」
月の光に照らされた化け物を遠目に、シグレが呟く。
ルーガル・オーダーよりもなお大きい。肩が人を超え、首は太い丸太のように盛り上がる。毛並みは月光を弾く白、濁った瞳には、光が宿っていない。
「う、うそだろ?」
「あ、焦るな。相手は一匹だぞ! すぐに援護班の攻撃準備!」
兵が叫んだ。
ざわめきが不安となり、多くの者が迫りくるルーガル・ファウンダーを目にする。
混乱が混沌を呼び寄せる。
「違う、待って!」
アリスが叫ぶ。
蒼眼に映ったのは、ファウンダーの足元を歩く見慣れた一人の男。
ラズだ。ローブは裂け、頬に浅い切り傷。だが歩みは揺れない。
そして、ファウンダーの頭の上には影を操り化物を動かすイオリ。
門前がざわめいた。
「ラズさん! それにイオリ!」
「あの二人がいるってことは、あいつをヤッたってことか?」
緊張感が張り詰め続け、それが次第に緩まっていく。
アリスとラズの視線が交差する。
血まみれになった彼は、いつもの調子で手を挙げて、口元だけで笑う
それはまるで、朝会ったかのような軽い挨拶。
アリスは、胸の奥の張り詰めた糸が切れたのを感じた。指揮官の判断より早く、身体が動いていた。
「ラズ!」
呼びかけは、声になりきらないほど掠れていた。アリスは駆ける。兵が道を空けるより早く、彼へと近づく。
次の瞬間――アリスは勢いに身を任せたまま、ラズへと抱き着く。
ぶつかった体温が、お互いが生きて帰ったことを実感する。ラズの身体が一瞬だけ硬くなる。だが、押し返さない。
「……遅い。遅いわよ! こっちはとっくに終わってるのに!」
責める言葉なのに、声が震えている。
自分でも驚くほど、指先に力が入っていた
ラズは困ったように息を吐いた。
「思いのほか手こずった。それに、こいつが重くてな。運ぶのに時間が掛かった」
淡々とした返事、いつも通りの声。そのいつも通りが、アリスの胸を埋め尽くす。
アリスはっとして、慌てて身体を離した。周囲の視線に気づき、頬が熱くなる。
「指揮官として、ラズが戻らないのは困るの。……だから」
言葉が一瞬迷子になり、結局、思い浮かぶ言葉を口にするしかなかった。
「無事で、よかった」
それだけ。それだけなのに、門前の空気が少しだけ柔らかくなる。
兵たちが、見なかったことにするように視線を逸らす。
誰かが咳払いをして、場を整える。
シグレが一歩前へ出た。仮面の奥の目が、ファウンダーからラズへと移る。
「やりましたね。ラズ様」
「ああ。うまくやったさs」
「他の魔物は?」
「いなかった。ルガールを生み出してたのはたぶんこいつだ。暫くは平和かもな」
その言葉は短く、淡々としている。
だが、誰もが理解した。
防衛戦の勝利が今夜だけの勝利で終わるかどうかは、彼等が握っていたのだと。
イオリが小さく息を吸い、意を決したようにシグレへ近づいた。
「シ、シグレ様!」
「おかえりなさい、イオリ。無事でなによりです」
シグレに頭を撫でられて、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「イオリはどうでした?」
問はラズに向けられたもの。
どう答えようか、と顎に手を当て逡巡している間。
イオリが申し訳なさそうに口を開く。
「シグレ様。イオリは、ラズ様の命令を」
「助けられたよ、イオリには」
その言葉に、シグレとイオリがラズを見上げる。
「イオリのお陰で仕掛けるタイミングがはっきりわかった。なにより、残党の処理をしたのはイオリだ。あの助けがなかったら、ファウンダーが残党を取り込んで、結果は違ってたかも知れない」
影から解放されて、地に横たわるファウンダーの身体。
もしイオリがいなかったら、森の中、月明かりに照らされ地に伏せていたのはラズだったかも知れない。
「俺の教えたことはまだ少ない。それでも、イオリは十分やってくれたよ」
淡々としている。それでも言い淀みがない真っすぐな賛辞だ。
喜びか、はたまた緊張の糸が切れたせいか、イオリの瞳に涙が溢れる。
「イオリ」
シグレのゆっくりとした声音。
「は、はい!」
「次も、期待しております。頼みますよ」
歯を食いしばって涙を堪え。
「もちろんです、シグレ様!」
そのままシグレに抱き着いた。
それをシグレはしっかりと受け止め、胸に顔をうずめるイオリの頭を撫でる。
アリスはそのやり取りを見て、ようやく息を深く吸えた気がした。ずっと続いていた緊張が、微かに解ける。
だが、指揮はここで終わらない。
アリスは安堵を吐き出すように声を張った。
「それじゃ、後片付けを続けるわ。治療班は決めていた優先順位を変えないこと。門の補修は夜明け前に最低限を終える。外周の偵察は交代で続けるわ」
空気が締まる。現場が再び動き出す。
班長たちが次々に頷き、指示を復唱しながら散っていく。
住民も、泣きながら笑いながら、それでも手を動かす。
ラズはイオリが運んできた死体に影を絡み付ける。
「これを内側へ運ぶ。みんなに見せておいた方がいい」
脅威の正体が死んだことを見れば、安心に繋がる。例えそれがすべての脅威じゃないにしてもだ。
「わかった。広場の端へ運んでちょうだい。ただし、みんなを驚かせないでよね? いきなりこいつが見えた時はもう終わったと思ったんだから」
「生きてる風に見せて驚かせたいって提案してきたのはイオリだ。文句ならイオリに言ってくれ」
「ぎ、ぎくっ!?」
シグレに抱き着いたままのイオリの肩が跳ねる。
「……イオリちゃん? だったかしら?」
「は、はいぃ」
「後で詳しく教えてね」
アリスの表情は笑顔。だが、その言葉に圧があるのは間違いない。
「まあまあ。今はいいじゃないですか」
割って入ったのはシグレだ。
「あの演出があったから、客人はラズ様に抱き着けたのですから」
「なっ!」
不意を突かれた発言に、アリスが言いよどむ。
戸惑うアリスを他所に、シグレはイオリを抱き上げて、大きく跳躍した。
「街の様子を見てきますので。それでは、ごゆるりと」
「ちょ、ちょっと! シグレ!」
読んでもシグレは振り返らない。
そのまま月明かりに吸い込まれるように、街へと飛び去った。
「な、なによ、まったく。変なこと言うわね」
「そうだな」
アリスは言いながら、横目でラズを見上げる。
さっき抱きついてしまったことを思い出して、言葉が一瞬詰まる。
だがアリスは、頭を振って冷静さを取り戻し。
「ラズ、やったわね」
ラズは短く頷く。それで十分だった。
ファウンダーの巨体が持ち上がり、影に引っ張られて歩くように街へと進む。
「ちょ、ちょっと、気をつけなさいって。みんな驚くでしょ」
「しょうがないだろ。こうやって運ぶのが一番はやい」
あきれながら、アリスがファウンダーの前に立って誤解を解いていく。
その姿を見て、誰もが同じ実感を共有していた。
勝った。
防衛線だけではなく、魔物との戦いに。
二つの勝利が重なって、ようやく本当の勝利になったのだと。




