第29話 月光の縄張り
森は暗闇に包まれていた。
月は出ている。
だが背の高い木々が枝葉を広げ、光に蓋をしている。地面には一寸の灯りすらない完全な闇。
ラズはその影に紛れていた。
親玉の感知範囲、その境目ぎりぎりに息を潜める。
影に魔力を流せば相手の位置や姿はすぐに伝わる。
だが、それは相手にもこちらの存在を知らせる行為。
今はまだその時ではない。
少し離れた森の外で、イオリは外縁の影に潜みバステリオンの状況を拾っている。
影を通してイオリの声が流れる。
『終わりました! アリス様がルーガル・オーダーを倒しました!』
その音には興奮が混ざっているが。
『残った魔物がこっちに来てます! かなりの数が森の方に!』
ラズは頷く。
予想はしていた。長を失った魔物の群れは森へと逃げ込む。
「落ち着け。イオリは影に紛れてそのままバステリオンまで退け」
『でも!』
「足手まといだ。イオリがいてもなんの戦力にもならない。邪魔になるだけだ」
冷ややかな言葉に、影が震える。
『でも……。合流されます。このままじゃ』
「そうだ。だから急ぐ必要がある」
ラズは影から姿を現して境界を確認する。
この先が親玉の縄張りだ。
一歩、踏み込む。
森の暗がりがわずかに重くなる。奥から押しつぶされそうになる圧が身体を軋ませる。
親玉は気づいた。だが、動かない。
「襲ってこないか。厄介なパターンだな」
ラズは舌打ちをして距離を詰める。逃げ帰る残党の気配が背後の森に点々と増えていくのがわかる。吠え声を殺し、ただ息と足音だけで走ってくる。
急がなければならない。合流される前に親玉を殺す必要がある。そうしなければ、アリスやみんなの頑張りが無駄になる。
やがて、空気が変わった。
木々はある。だが、上がない。幹の途中から先が、ごっそり斬られたように失われ、円形に空が抜けている。月明かりがそこだけ真っ直ぐに落ち、地面を照らし出していた。
「そう来たか。最悪だな」
影が薄い。森の暗闇の中で、そこだけが明るすぎる。
月光の中心に、巨大な光が座していた。
アリスが倒したルーガル・オーダーをさらに巨大化させたような祖型。肩は人の背丈を軽く超え、首は丸太のように太い。毛並みはルーガルやルーガル・オーダーとは違い、月光で輝く白銀。
親玉。ルーガル・ファウンダー。
動かない。だが、視線はまっすぐにラズを捉えている。
ルーガル・ファウンダーの足元が異様に歪む。白い月明かりの地面に黒い筋が走っている。血管が根の様に這い、祖狼の呼吸に合わせて筋がわずかに脈打つ。
背後から逃げ帰ったルーガルの残党がその筋へ吸い寄せられていく。根が這う地面に乗った瞬間、祖狼の体躯のどこかへ溶け込むように消えた。
「吸ってるのか。逆に出すことも出来るのか? だとしたらコイツを殺せば発生は抑えられそうだが……。何にしても早々に殺した方がいいな」
ラズは一歩、月明かりの境界へ踏み出した。
祖狼は動かない。
ラズは目を逸らさず、静かに息を吐く。
「手強いな」
ラズは影を伸ばした。
周囲の暗闇から影を一気に月明かりが照らす地に走らせる。
祖狼の足元へ絡み、次の瞬間、影が霧散した。
根が影を吸っていく。
「その根は魔力を吸うのか」
祖狼が、ようやく動いた。
巨体が跳ぶ。音が遅れてくるほどの加速。
ラズは後退して木陰へ――入りきれなかった。
巨体が故に見誤った、ルーガル・ファウンダーの動きは俊敏だ。
そして、恐らく頭も回る。
ラズが影使いだと察して暗闇に逃げ込む前に接近を叶えた。
爪が月光を弾き、風を裂く。
ラズは半歩だけずらして受け流す。爪先がローブを掠め、布が裂ける。次の瞬間、足元の黒い筋が触手のように伸びる。
咄嗟に剣を引き抜き襲い来る筋を斬って薙ぎ払う。
強靭な爪が空を切り裂き、風圧で前髪が千切れる。
襲い来る攻撃を対処し、暗闇から影を引っ張り自身と繋がった瞬間に影に潜った。暗闇を泳いで光が届かない木々の影に姿を現す。
後方に出たが、祖狼は瞬時にこちらを見据えた。
この場で勝負を続ければ、影が薄い分だけこちらが不利だ。
だったら、舞台を作り替える。
ラズは影へ魔力を流し、一本の黒い刃を作った。刺す刃ではない。切り裂くための長い剣。
「断ち斬れ」
刃は祖狼ではなく、辺りを埋め尽くす木々へ向けられる。振られた黒刃は闇に溶け、斬撃範囲は誰の目にも映らない。
月明かりの輪を囲むように立つ巨木が、微かな音と共に形を崩す。樹皮の内側が裂け、木が軋んだ。
祖狼はそれを見て、ようやく意図を察したのか、体勢を低くする。
「来るか」
ラズは祖狼の跳躍に合わせて動いた。
わざと月明かりの中央へ、半歩だけ踏み込む。
ルーガル・ファウンダーが跳んだ。巨体の圧が風になる。
一人と一体が交差する前に、月下は暗闇に包まれた。
軋み。うねり。落ちる風圧。
巨大な木々が音を立てて森に作られた輪に流れ込む。
倒れるそれは、地面に深い影を作り上げた。
「終わりだ」
次の瞬間。
暗闇の中で、深淵から幾つもの影が形が生み出される。
それはファウンダーの全身に絡みつき、突撃する勢いを完全に絡めとった。
吠える。低く、腹の底から。だが、その咆哮は焦りの色を帯びている。
ラズは影から黒刀を作り出し、影に縛られる魔物に近付く。
獰猛な瞳が眼前に近付き、黒をそっと胸に突き刺した。
根の筋が跳ね、触手が影へ伸びる。
影を喰おうとし、ラズを捉えようとする。
だが、もはやそれは叶わない。
ラズの周囲にある暗闇が、見えない影が行く手を阻む。
何もない暗闇にあるのは、ラズの魔力である影だ。
「お前には核があるんだろ? 知ってるよ」
黒刀に魔力を流し、魔物の体内を探る。
脈打つ度に魔力が溢れる。
その発生源をラズは捉える。
刀を引き抜き、核がある場所にそっと突き立てた。
「俺の故郷を燃やした奴も核持ちだった。だから、知ってる」
突き刺し、剣先が核を貫いた。
ファウンダーの巨体から力が抜ける。根の筋が一斉に萎れ、土へ沈み、ただの黒い染みになって消えていく。
轟音を立てながら切り裂いた木々が倒れて落ちる。ラズとファウンダーの場所を除いて、地面が木に埋め尽くされた。
森が、静かになった。
ラズは短く息を吐く。
アリスがルーガル・オーダーを倒し、ここでファウンダーを。
これで今夜は終わる。終わるはずだった。
背後から、ざわりと気配が増えた。森の手前から逃げ帰ったルーガルの残党が複数。倒れた親玉のもとへ合流しようとして、暗闇の中を走ってくる。
「さて。どう処分するか」
ラズが影を広げ直しながら自分の魔力の残りを確認する。
核を破壊するために、だいぶ魔力を使った。
それに、辺りの木々を切り倒したせいで月光が辺りを照らしている。
ここまで来られたら、さすがに分が悪い。
相手は核持ち。破壊し、命を奪ったとはいえ、残党を吸い込めば復活し兼ねない。それほど未知の存在だ。
暗闇に、一つの色濃い魔力が浮かび上がる。姿は見えない。だが、感知魔法でそれがわかる。ルーガルの残党に紛れる一つの魔力が影に隠れては姿を現す。
その度にルーガルの気配が消えていく。
『んー……。数が多いです! ここは一発!』
影に大量の魔力が注がれ、無数の刃が生み出される。
把握できないほどの量があるそれは、次々と魔物の気配を打ち消していく。
最後の一体。
イオリが打ち損じた魔物に近付き、すぐに気配が消えた。
森が、完全に静寂へ戻る。
ラズは切り開かれた場所から暗闇へと移動する。
影の中にある魔力の塊がそーっとラズの足元に近付くと、イオリが目だけを地上の影から出して窺う。
「イオリ」
「……命令に、従いませんでした。すみませんでした」
ラズは一歩近づき、イオリの前で止まった。
「いったん出てこい」
「でも」
「いいから」
影から出てきて、申し訳なさそうに俯いているイオリ。
叱る言葉は、出てこない。
出すべきだと分かっているのに、ラズはその言葉を出せなかった。
ラズが手を持ち上げると、イオリはびくりと肩を震わせた。
目を瞑り、ぎゅっと裾を握りしめるイオリの頭に、頭にラズは手を置いた。
乱れた髪を、くしゃりと撫でる。
「……よくやった」
イオリが顔を上げる。驚きで目が丸くなる。
「えっ。怒らないんですか?」
「後で怒る。命令違反は重罪だ」
ラズは淡々と言って、それからもう一度だけ頭を撫でた。
「判断が合ってたかはわからない。だが、合流させたら面倒だった」
イオリの目が揺れ、すぐに潤む。
「……はい!」
「ただし、次からは俺が退けと言ったら退け。命令を守れ。いいな? ……、これは、イオリを守りたいから言ってるんだ」
その言葉に、イオリは再び深く頭を下げた。
「はい。絶対、守ります」
息を吐き、ラズは倒れた祖狼を見た。
ルーガル・ファウンダー。群れの根。今夜の発生源。
「持って帰るか」
「えっ。あれをですか?」
影の糸が伸び、巨体を支える。引きずらない。影の担架で浮かせるように運ぶ。証拠として、そして、街の安心のために。
「す、凄い大きさですね。こんなのイオリの影じゃ持ち上げられないです」
「見てるな。行くぞ、イオリ」
「は、はい! 師匠!」
「だから師匠は止めろって言ってるだろ」
イオリの声はまだ震えている。
叶う事なら、隣を歩く彼女を、もう少し撫でてやりたいと思いながらも。
二人はバステリオンへと戻った。




