第28話 満月のルーガル
満月だった。
夜のはずなのに、城下は薄く明るい。
嫌な明るさだ、とアリスは思った。
魔物と戦う際、本来であれば明るさは人間に味方する。
しかし、アリスは満月を睨み、胸のざわめきを感じていた。
前線の列は組み終えていた。盾持ちが並び、その後ろに魔具兵。さらに後ろに交代要員。門前の空間は、静かな呼吸と自分を鼓舞する戦士たちで埋め尽くされている。
アリスは呼吸を整えてから、声を張った。
「合図が鳴ったら動く。焦らない。線を守って、交代を守って。私達ならやれる!」
「おう!」
返事は短い。だが、指揮は高く揃っている。
見張り櫓の上から警報が鳴り響く。甲高い警鐘が夜空を裂いた。
続いて、もう一つ。森側の狼煙台が白い光を吐き、合図が走る。
「来るぞォ!」
誰かの叫びが辺りに響く。
暗闇に包まれた森の縁が動いた。
現れたのは狼が二足で歩くような魔物の軍勢だった。長い腕。獣の頭。牙。月光を受けて濡れた毛皮が鈍く光り、爪が土を削る。
バステリオンでは、そいつらをこう呼ぶ。
「ルーガルだ! ルーガルの群れが来るぞ!」
月に群れる狼。数が見えない。先頭だけではない。森の奥から途切れなく狼が押し出されてくる。地鳴りが幾重にもバステリオンを包み、戦士たちの身体を震わせる。
外周の木柵と土塁の前に仕掛けた誘導路へルーガルが吸い込まれていく。逆茂木が足を止め、落とし穴が隊列を崩し、滑る氷が踏み込みを奪う。
「外周、削れ! 打ち込め!」
魔具を持った男達が魔力を打ち込み、振動と共に低く唸りを上げる。
衝撃波、投射槍、拘束の鎖。炎や氷の塊が次々と放たれる。
幾つもの光が満月の下で突き進み、魔物にぶつかり弾けて消える。
「――ッ! ――ッ! ――ッ!」
ルーガルの群れが削れていく。倒れる。滑る。押し合って転ぶ。
声にならない唸り声が、幾つも夜空に吸い込まれては消えていく。
まずは順調。
誰もがそう思った瞬間、木が折れた。
外周が噛み砕かれる。
魔具から放たれた魔法が襲い来るルーガルを地に伏せる。削る。しかし、削っても後ろから次々と姿を現す。足止めの柵が破壊され、襲い来るルーガルが削る速度を上回った。
「突破される!」
ルーガルが土塁を越え、木柵の隙間を裂いて、門前へ雪崩れ込む。
アリスが叫ぶ。
「前衛当たれ! 盾は前! 魔具を持った者は後ろから撃て!」
前線がぶつかった。
盾と爪がぶつかり、金属音が弾ける。
ルーガルの突進は重い。だが盾列は崩れない。
足が踏ん張る。後ろの魔具兵が狙いを揃えて叩く。
アリスも前に出て剣を振るう。
舞うようにルーガルの爪を避けては銀線を奏で、鮮血が夜空に飛び交う。
まだ作戦の範囲。
その時、警鐘が二回鳴った。
撤退の合図。
「後退、後退! 閃光魔具を持つ者は使用して前に投げ込んで!」
アリスの号令が落ちると、前衛が一斉に閃光魔具を起動した。
白い光が弾け、ルーガルの目が焼ける。群れが呻き、爪が空を掻く。
その一拍の隙に、前衛は引く。
門前へ。後衛と入れ替わる。
交代が成立した瞬間、門上から声が落ちた。
「援護班、撃ちこみ始め! ここで一気に数を減らすぞ!」
合図に合わせて、城壁上の援護班が一斉射撃を始める。修理された魔具が、少ない魔力で強い火力に変換されていく。
衝撃波が走る。投射槍が雨のように落ちる。数えきれないほどの爆発が地上を揺らし、辺りを光で照らす。
「いいぞ!」
「削れてる!」
「行け行け行け行け! このまま押し切れ!」
ルーガルが削れる。削れて、倒れる。
「外周班、来るぞ! 接敵に備えろ!」
幾つもの攻撃を躱して躍り出たルーガルの首をアリスが跳ねる。
続く魔物たちを地上に控える魔具部隊が撃ちぬいた。
士気が上がる。足が揃う。次々とルーガルを殺し続ける。
順調だ。
そう思えるほどの数を倒していた。
だが、次の波が来る。その次も来る。
倒しても倒しても、途切れない。削っているはずなのに、減らない。
むしろ魔物の数が増えている。
月が、白すぎる。
「月夜の、軍勢だ……」
誰かがぽつりと零した。
アリスの胸がざわつく。軍勢の相手をするのは初めてだ。だが、これが普段の数とは違うことは、兵たちを見ていれば明白だった。
ルーガルの量が違う。このまま消耗戦になれば押し切られる。
漠然と不安が広がり始める。
門前で戦いながら、アリスは兵の肩の上下を見た。呼吸が荒くなる速度が早い。交代を回しても、回復が追いつかない。次第に前線に立つ数が減っていく。
それでも、ルーガルの勢いは収まらない。
「ジリ貧ね」
アリスは歯を食いしばり、早々と決断した。
最後の手を切る。
「警報を四回鳴らして! 総援護の準備を!」
叫んだ瞬間、警鐘が四回鳴った。
合図が夜空に響き渡る。
総援護。避難所の住民にも魔具を握らせる合図だ。
「何をする気だ!」
異常を察した前線の兵がアリスに詰め寄る。
「女、子供を戦いに巻き込む気か!」
怒号が飛ぶ。それでもアリスは振り向かず、声だけを叩きつけた。
「巻き込むんじゃない!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
「守るの! この街を、この国を! そのために私は魔具を回した!」
「お前。なにを言って」
アリスが兵の胸ぐらをつかみ上げ、睨む。
「一人でも多くの人を助けるの! それが私が出来ることだから! 迷ってる暇があった頭を回せ! 手を動かせ! 思考を止めるな!」
男を弾き飛ばしてアリスは門上を見上げた。
シグレがいるはずの場所。
だが、そこにはもう一人いた。
チヨ婆だ。
送水魔具の前で笑っていた、あの老婆が。
城壁の上で、堂々と魔具を抱えて立っている。
チヨ婆が振り向き、怒鳴った。
「聞こえたかい! 四回だ! 撃てぇ!」
住民が一斉に立ち上がる。魔具を握る。
魔力が込められ、術式が唸りを上げて一斉に魔物の群れを襲う。
雨の様に降り注ぐ魔法の嵐。
だが、精度がない。
弾幕は張れている。足止めにはなる。だが、当たらない。前線の頭上を越え地面が弾け飛ぶ砕ける。
「すぐに態勢を立て直して! 長くは持たない! 前衛は迎撃の準備を」
指示を飛ばしながらアリスは周りを見て、事態を改めて把握する。
肩で呼吸をして、立っているのが精いっぱいの兵たち。
鎧が砕け、武器が欠け、流血している。
態勢を立て直してどうする? この軍勢を押し返せる?
いつまで耐えればこれは収まる?
「……違う。そうじゃない」
アリスは前へ出た。
誰かが叫んだ。止めろ、戻れ、攻撃に巻き込まれる、と。
「私が切り開く。この道を、この国を」
声が遠い。何も聞こえない。月光がやけに静かだ。
地面が爆ぜる。
魔物が叫ぶ。
それらを目の前にして、アリスは剣を地面を突き刺した。
息を吸うと、肺の奥まで冷たい。吐けば白い霧が散り、霧はす月光に溶ける。
魔力を地面へ流し込む。
氷魔法の詠唱は派手ではない。
だが、歌に似ている。
静かな決意が、世界の温度を変える。
足元の霜が走った。
一本の線ではない。無数の細い糸が、石の隙間から、土の粒から広がっていく。
月光に照らされた白い氷が、夜の黒を裏返していく。
冷気が爆ぜる。
暗かった地面が、氷りに反射し輝きを放つ。
地面が白く染まり、霜が柱のように立ち、氷が花のように開く。ルーガルの足が氷に張り付く、爪が砕け、群れが互いに押し合って崩れる。噛み合う牙が虚しく空を噛み、怒号が虚しく響くも身体を凍てつかせる。
氷は魔物だけを縛らない。
アリスの指先も、ゆっくりと白くなる。皮膚の感覚が薄れ、血の温度が奪われ、骨の内側が冷たく軋む。それでもアリスは魔法を止めない。止めれば氷は割れる。割れれば魔物はまた動く。
静かに、残酷に。
戦場が氷の庭に変わった。
動けない魔物は、月光の下で彫像のように固まり、身動きを止める。
その吐息さえ、氷の膜に触れて砕けていく。
その瞬間。
城壁の上の魔具が、ようやく意味を持つ。
「動きが止まった! 固定具を外して照準を合わせろ!」
「援護班がやれ! 民は魔力を注ぐことに集中させろ!」
「撃て撃て撃て! やるなら今しかねえぞ!」
一斉に放たれた――魔具の攻撃が当たり始めた。
城壁上の弾が、氷で止まった的へ吸い込まれるように刺さる。衝撃波が群れを砕き、投射槍が喉を貫き、炎が姿を燃やし尽くす。
「当たってる!」
「当たるぞ、これ!」
住民の声が変わる。恐怖の声から、手応えの声に変わっていく。
前線の兵も叫ぶ。
「魔具を持ってる奴は攻撃しろ! 怪我人はすぐに下がれ!」
「道を作れ! とにかく撃ちまくれ!」
士気が跳ね上がる。
次々と攻撃が激しくなっていく。
アリスは喧噪の中で、氷に覆われた視界の中、氷から伝わる気配で感じていた。
――いる。
群れの中心ではない。少し奥。軍勢を押し出す力の根。
そこに長がいる。長を落とせば、勢いは収まる。
シグレの言葉が脳裏を掠める。過去の事例。経験知。勝ち筋。
アリスはふらりと前へ出た。
「おい、嬢ちゃん!」
「下がれ! 巻き込まれるぞ!」
誰かの声が背中にあたるが、アリスの耳には届かない。
氷の上を走る。足が感覚を失いかけている。
だが止まれない。
攻撃が鳴りやまない戦場の中を、アリスは駆け抜けた。
白い息を吐きながら、氷に包まれた手足を動かし続け――長は、いた。
他のルーガルよりひと回り大きい。毛皮は黒く、月光を吸う。目だけが冷たく光る。
長がアリスに気づいた。
牙が剥かれる。次の瞬間、爪が横薙ぎに来た。
アリスは避けない。
代わりに、氷で自分の姿を作った。
アリスの形をした氷の像が、長の爪を受け止めて砕ける。
飛び散る氷片が視界を白くする。
ルーガルが氷像へ体重を乗せたその一瞬。
アリスは背後へ回った。
呼吸が凍る。腕が痺れる。
それでも今まで振り続けてきた剣は嘘を吐かない。
「終わりよ」
アリスは長の背に刃を突き立てた。
心臓の位置へ。
手応えがあった瞬間、氷魔法が追い打つ。
氷の柱が一気に立ち上がり、ルーガルを閉じ込める。
叫びが氷の中で歪む。
アリスは最後の力で剣を引き抜き、氷柱を砕いた。
氷が割れる音が、戦場のど真ん中で鳴った。
ルーガルの身体が崩れ落ちる。
その瞬間、群れの動きが変わった。
押し出す圧が、抜けた。波が波でなくなる。
ルーガルが散り散りになる。逃げる。迷う。方向を失う。
「引いた!?」
「長だ! 長が落ちた!」
「嬢ちゃんがやりやがった!」
叫びが上がる。兵たちが追う。ひたすらに狩る。
氷の上で動けない魔物を確実に仕留め、逃げる魔物を門外へ追い返す。
城壁上の住民も叫ぶ。
「当たってる! 当たってるよ!」
「リッド、よくやった!」
チヨ婆の声が風に乗る。
「ほら見な! 守るために撃つんだよ!」
アリスはその場に膝をつきかけて、踏みとどまった。
身体が冷たい。指先が動かない。血が凍りそうだ。
それでも、勝った。
門前の空気が、初めて軽くなる。
月は変わらず白いのに、死の重さが少しだけ遠ざかる。
最後に残ったルーガルが森へ消えていく。
その背中を見送って、バステリオンの者たちは、夜の勝利を噛み締めた。
月夜の軍勢。最悪に近い夜。
それでも勝利は、バステリオンに傾いた。




