第3話 第一王女と逃走
路地の奥から足音が迫ってきている。石畳を蹴るたび、わずかに躓く音が混じる。
誰かが何かに追われている足音だ。
「まずいな」
ラズは瞬時に判断し、倒れ伏す暗殺者たちへ手を伸ばした。
路地裏を包み込む影が音もなく動き出し、死体を飲み込むかのように集まっていく。質量のないはずのそれが、死体を飲み込むかのように覆い隠す。そして、影に包まれた死体は地面にゆっくりと沈んでいった。
音もなく、気配もなく、まるで影の中に溶けていくかのように。
最後に残ったのは血痕だけだったが、それすら影が薄く塗り潰していった。闇に混ぜれば、路地の汚れにしか見えない。
「さて、お次はなんだ」
死体の処理が終わったのとほぼ同時に、角から人影が飛び込んできた。
フードを被った少女。いや、少女と呼ぶには大柄か。身を包むローブはどこか上等で、走り方もただ者ではない。しかし、息は荒く、肩で呼吸をしている。右腕に赤が滲み、傷を負っていることがわかる。
そして何より、目を引いたのはその顔だ。
日光が入らない路地の薄闇。それでも、整いすぎた輪郭、透けるような白い肌。恐怖の中にあってもなお崩れない美しさ。そこには場違いすぎる気品が感じられる。
「見覚えがあるな。……まさか」
答え合わせは、次の瞬間に来た。
少女はラズを見つけるや否や、迷いなくその手を掴んだ。
「お、おい!」
「お願い、一緒に走って!」
声は掠れていたが、その言葉にはラズを動かすだけの力があった。反射で足を動かしながら、先ほどの声を思い出す。
聞き覚えのある声音。式典の壇上、祝祭の挨拶、騎士団への激励。民衆が歓声を上げる中で、真っ直ぐ前を向いていた声。
第一王女、アリストリッド・アルゲンティア。
ここ、アルゲンティア王国で知らぬ者はいない名だ。
しかし、なぜ第一王女が路地裏を?
答えを探す暇はない。こちらを追いかけている足音が増えた。規則正しい複数の歩幅。乱れがない、隊列が組まれた人の気配。獲物を囲う俊敏な動き。
「止まれ」
短い命令が背後から飛んでくる。
ラズは走りながら、わずかに首だけで背後を確認する。
先ほど始末した連中と同じ仮面。口を割らずに自害した王都暗殺部隊。その追手が、今度は第一王女を追っている。
疑問は広がっていくが、頭だけが妙に冴えていく。
風を切る音。暗殺者の一人が、投げ刃を放った。
ラズはアリストリッドの肩を引き、身体を半歩ずらす。
刃はローブの端を掠め、石壁に突き立った。
「っ!」
アリストリッドが息を飲む。だが足は止めない。恐怖で動けなくなる弱さはない。走ることを選び続ける強さはある。
影が空から降って来た。
上を見ると仮面を被った者が目の前に着地――することなく、壁の縫い目から這い出た影に押し付けられ、壁に叩きつけられた。パラパラと降り注ぐ瓦礫に構うことなく走り続ける。
「貴方がやったの?」
「今は前を見ろ。足を止めるな。捕まったら死ぬぞ」
ラズの声は冷静そのもの。まるで部下に出す指示のように冷たいものだ。
暗殺者たちは息が合っている。こちらの逃走速度を計算し、前方を抑え、後方で詰める。さきほど路地で仕留めた連中と同格だ。
広い通りへ出れば影は薄くなる。明るい場所ではラズにとっては分が悪い。
ラズは頭の中で王都裏の地図を思い浮かべる。騎士団で学んだものではない。自分の得意な影魔法を活かせる場所を探した知識。
ラズはアリストリッドの手を強く引いた。
「こっちだ」
路地が途切れ、短い空き地に出る。地面には鉄の蓋が敷かれていた。排水に繋がる地下への道だ。
暗殺者の一人が距離を詰めてきた。
短剣が光る。
ラズはアリストリッドの手を振り払い、暗殺者と対峙した。
突き出された短剣を影で包んだ左手で掴み取り、仕込んでいた短剣を咄嗟に振るう。
浅い。だが、暗殺者の首から血が噴き、塞ぐため身動きが止まる。
次の瞬間には、ラズが放った短剣が、暗殺者の心臓を貫いていた。
「このっ」
声にならない音を吐き出し、暗殺者が静かに倒れる。
「隠れるか? 或いは全滅させるか?」
問いに、アリストリッドの目が鋭くなる。
怯えてはいない。状況を読もうとしている目だ。
「今は退きましょう」
即答だった。
「なら蓋に飛び込め。影を通過したらすぐに地面に着地する。準備しとけ」
「ど、どういうこと?」
「いいから早く」
ラズがアリストリッドの背中を押すと。
「わ、わかんないけど!」
地面に敷かれた鉄の蓋に飛び乗った――はずの彼女の姿が、そのまま蓋に吸い込まれるように姿を消した。
「クソっ! どこに行きやがった!」
追手の声から逃げるように、ラズもすぐさま蓋に飛び込んだ。蓋に敷いていた影を通過して地下水路に着地する。
等間隔に設置された光は弱く、薄暗い。湿った空気、生臭さと、冷えた水の匂い。隣を見ると、壁に寄りかかり、負傷した右腕を抑えているアリストリッド。
「クソっ! あいつらどこに逃げた!」
「すぐに探し出して処分しろ! 絶対に逃がすな!」
頭上で複数の足音が忙しなく走り回り、怒号が響く。
暫くすると、それらは遠ざかって行った。
排水が流れる音、水滴が落ちる音さえ、やけに大きく聞こえる。
だが、彼らの追跡は終わらないようだ。




