第25話 闇の奥の圧
パウザリアの宿は壁が薄かった。隣の部屋の寝息、廊下を歩く足音、外の喧騒まで聞こえる。
ラズは窓際に腰を下ろし、未だ賑わう街を見下ろす。
イオリは、布団に入っているのに落ち着かない様子だ。
「師匠、ほんとに明け方に出るんですよね?」
「ああ。イオリは森まで行ったことあるのか?」
「いえ、一度も。森に入って魔物を狩ると、軍勢の夜の周期が代わってしまうようなので、近付かないようにと言われてます」
「なるほど。じゃあ魔物は無視した方がいいのか」
「それでお願いします! ……それでも、森に行くのは怖いですけど」
ころころ変わる表情が、最後に不安へ沈む。
「怖がるぐらいが丁度いい。自信がある奴ほど早死にするもんだ」
「そ、そうですよね……。はい、気にしておきます!」
街の灯りが消える。
窓の外が暗くなるほど、室内の影は濃くなる。窓辺の裏、柱の隣、布団の皺。影が次々と居場所を作っていく。
「影魔法は夜の方が楽だ」
「えっ、なんでですか?」
「影が濃い。影が濃いほど隠れる場所が増える、繋げられる線が増える。違うか?」
イオリは布団の端から顔を出し、きょろきょろと影を見た。
「……たしかに。暗いと影がいっぱいです」
「昼は光が影を薄くする。魔力不足だとよく言われたが、そうじゃない。夜は光より影が勝つ。力も、戦術も、使いやすさも、桁違いに増えるんだ」
「じゃあ、夜に練習した方がいいんでしょうか?」
「夜にも戦えるようになりたいならな」
ラズの言葉に、イオリが背筋を伸ばした。
「イオリ、夜に戦える影使いになります!」
「声がでかい」
「すみません!」
「それと、夜にも戦えるようになる、だ。シグレは、そっちの方が喜ぶぞ」
その言葉に、イオリが布団から飛び出して声を出す。
「ならうちは、どっちでも戦える影魔法使いになります!」
「声がでかい」
「すいません!」
興奮する少女を見て、ラズは静かに笑った。
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夜明け前。ラズとイオリはパウザリアを出た。
街は寝静まっており、夜道を照らすのは月明かりのみ。それでも二人は暗闇を辿って街道に出る。
イオリに影魔法の練習をさせながら歩き続け、東の空がわずかに薄くなる頃、別れ道にでる。片方がバステリオンに続き、そして、もう一方は森へと続く道だ。
ラズはそこで足を止める。
「油断するなよ。魔物がいつ出て来るかわからない」
「はい」
イオリが緊張した面持ちで頷く。
「森に入ったら喋るな。呼吸を浅くしろ。視線を動かすな。影で周囲を探れ」
「影で、探る」
言葉を復唱しているイオリを後ろに、ラズは足を進める。
森に着いた。
目の前には背の高い木が幾つも並んでいる。幹は太く、真っ直ぐに空へ伸び、枝が互いを覆い合う。葉が光を遮り、昼でも中は暗闇が広がるだろう。
そしていまは夜明け前。目で見ていては暗闇しか映らない。目を開けているのか、閉じているのか。心が弱い者ならそれだけで気が狂う暗さ。
「何も、見えません。それに、静かです」
ぽつりと、イオリが零す。
風が吹いているのに葉擦れの音が小さい。鳥の声も虫の鳴き声もない。まるで闇に飲み込まれているかのような静けさを保っている。
「近くにはいないが、奥にはいるな。うじゃうじゃと」
ラズは森へ一歩、足を踏み入れた。木の根の影、葉の影、土の影。辺りは影だらけであり、深い影は音を吸う。
「教えた通り、影で周囲を探ってみろ。目を閉じて、影で見るんだ」
イオリが目をぎゅっと瞑ると、眉間に皺が出来る。
「く、暗くてなにも見えないです。それに、怖いです」
不安そうにしている彼女に、ラズは背後に回って肩に手を置いた。
「落ち着け。肩が上がってる」
「えっ」
「焦りは影の敵だ。冷静でいろ。影に紛れろ。呼吸を整えろ」
イオリは息を深く吐いて、ゆっくりと吸い込む。
「目を閉じろ」
「……はい」
「影に意識を落とせ。足元の影。指先の影。背中の影。全部が繋がってる」
まだ恐怖が抜けないか、イオリの呼吸が浅く、身体は強張っていた。
「怖いなら手を握れ」
ラズは躊躇なく、イオリの手を取った。
小さく冷たい手が、びくりと震えた。
「あっ」
イオリの顔が赤くなる。次の瞬間、怖さで白くなる。
「落ち着け。目をつぶっても大丈夫だ。俺はここにいる。安心しろ」
「……はい。わかりました」
イオリはぎゅっと握り返した。
身体の震えが落ち着いたところで、ラズが低く言う。
「影を少しずつ広げていけ。広域調査だ」
「こ、広域?」
「まず、自分の影を薄く伸ばす感覚だ。魔力で影を伸ばし続けろ。光に当てないようにな。光に触れたら途切れるぞ。光を避けて、影の中を縫うように伸ばしていけ」
ラズは自分の影を、ほとんど見えないほど薄く伸ばした。辺りに広がる闇の中を進むそれは、地面の凹凸に沿って森の奥へ滑っていく。
「俺の影が伸びたのがわかったか?」
「はい」
「同じようにやってみろ。大丈夫、影の中で自分の影を伸ばすのに、魔力はたいして使わない」
目を閉じたままのイオリの影が、進みだす。
ラズの影のすぐ隣を、まるで寄り添うように、ゆっくりと滑る。
「そうだ」
「怖いです。影の向こう、何がいるか分かりません」
「影の中を通ってる限り相手からは見えない。安心しろ」
「……ほんとうですか?」
「ああ。それに、俺達はここにいる。影が見つかっても潰されてもなんの痛みもない。大丈夫だ。影はしょせん影。俺達じゃない」
ラズは、握っている手に少しだけ力を込めた。ここにいる、という感触を確かめさせる。
イオリの肩が緊張から解放されたように、僅かに下がる。
「……わかりました。師匠に、付いて行きます」
「それでいい。不安になったらすぐに魔力を止めろ。目を開ける時はゆっくりだ。急がなくていいからな」
イオリが小さく頷いた。
二本の影が森の奥へと伸びる。音もなく、気配もなく。森になんの影響を与えないそれは、しかし確実にその地形を把握しながら進んでいく。
「余裕が出てきてきたら辺りに気を配れ。俺の影ばかり追うんじゃなくて、周りの状況を把握してみろ」
イオリの眉が震える。
「はい。……暗いのに、形が、わかります」
「そうだ。伸ばした影からさらに周りに魔力を流せ。そうやって地形を細かく把握しろ」
森が深くなるほど影が増える。増えるほど道が増える。影使いにとっては身体よりも身軽に、自由に動ける場所だ。
影の先で、無数の点が動いているのを感じた。
魔物だ。
イオリが息を呑む。
「い、います。いっぱい」
大声になりかけたのを、イオリは必死に飲み込む。
手が強く握られる。ラズはその手を離さない。
「数が多いな。種類も複数いるか。しかし大人しい。軍勢の夜を待ってるのか?」
「軍勢の、夜」
「少し見てろ」
ラズの影が闇を動き、魔物に触れ――ぶちりと毛を抜いた。
くつろいでいた魔物が飛び跳ね、唸りを上げて辺りを見渡す。
が、そこには何もいない。くつろいでいる他の魔物は呆れた様子でそれを見ており、特にアクションを起こさなかった。
「ちょ、ちょっと師匠!」
「バレないもんだろ? この影の濃さなら過剰に魔力を流さなきゃ見つからない」
「下手なことすると周期が代わっちゃいますって」
「そういえばそうだったか。それじゃ、偵察を続けるぞ」
「まったく……」
呆れた様子のイオリの声音に、ラズはこっそり口元を緩める。
ラズは影をさらに奥へ滑らせた。地面の下、根の影、岩の影、水の影。
そして森のもっと奥で、影の流れが一瞬だけ歪んだ。
空気が違う。
イオリが感じ取った。目を閉じたまま、顔が青くなる。
「なに、これ……」
森の奥から、圧が伝わってくる。怒りでも殺意でもない。もっと単純で、もっと本能的な重さ。
ラズはそこで影の伸びを止めた。
「こいつが親玉か」
イオリが小さく呻く。
「いる。ほんとに。こんなのが……」
影を通しているのに背筋が冷える。目を開けていないのに、目を潰されそうな感覚がある。
イオリの手が震えた。
「こわいです。これ以上、進んだら。ダメだと、思います」
「ああ。見られるな」
「えっ」
「縄張りみたいに魔力を振りまいてる。影がそれに触れれば俺達がいることを察するだろうな」
「じゃ、じゃあ。どうするんですか?」
「今日は終わりだ」
ラズは影に流す魔力の供給を止める。
「……ほっ」
イオリが安堵の息を吐き、ラズに倣うように魔力を止める。
「だが、しかし」
ラズは考える。
魔物の数。親玉の警戒心、そして、強さ。正面から挑んでも勝てない。あの数を全滅させた後、親玉を殺すのはかなり手間取る。勝ったとしても、駆け付けた魔物に囲まれ戻れない。
だからシグレは今までそれをしなかった。
だが同時に理解もした。
軍勢の夜。大量の魔物がバステリオンへ向かい、親玉の周囲が薄くなる瞬間がある。その時なら、潜れる。届く。切れる。手が容易に届くようになる。
だからラズに頼んだ。
バステリオンは魔物と戦い続ける武闘派集団だと思っていたが、そうじゃない。他の者はわからないが、少なくともシグレは違う。
工作班といい、今回の件と言い、合理で戦いを決めている。勝てる瞬間を虎視眈々と待っている。
彼女からしたら、アリスという旗印が来たことも、ラズという強者が来たことも、待ちに待った好機の一つ。たまたまじゃない。仕込み続けた果実がようやく実った瞬間なのかも知れない。
ラズの口元が、自然とわずかに上がった。
「師匠。なんで、笑ってるんですか?」
問いに、ラズは首を横に振り、すぐに表情を戻した。
「笑ってない」
「笑ってました! 絶対!」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないです!」
「うるさいぞ。魔物が寄って来るかも知れない」
「そ、そうでした……」
「さて、じゃあ帰るぞ」
イオリが頷く。頷くが、手を離さない。むしろ、ぎゅっと握り直してくる。
「手はもういいだろ?」
「もう少しだけ、ダメですか?」
怯えた様子で上目遣いを向けて来る少女に。
「じゃあ、乗れ」
「え?」
ラズは身をかがめた。
イオリが一瞬、目を丸くして、すぐに顔を赤くする。
「お、おんぶですか!?」
「こっちの方が動きやすい。なにか会った時も対応が早いからな」
イオリは迷い、そして、恐怖に負けて、ラズの背にしがみついた。
「お願いします……」
声が小さくなった。
ラズはイオリを背負い、影の濃い道を選んで森を出る。
木柵が見える。土塁が見える。街の灯りが見える。
バステリオンが朝日に包まれる。
背中のイオリが、ようやく息を吐いた。
「帰ってきた」
「ああ。だが、これからだ」
「軍勢の夜、来るんですよね」
「だろうな」
ラズは森を振り返らずに言った。
「それに、俺達はアイツを殺さないといけない」
イオリはラズの背中にしがみついたまま、小さく頷いた。
「怖いですけど……。ついていきます!」
ラズは返さない。返さない代わりに、背中の重みを確かめるように一度だけ歩幅を調整した。
ラズの胸の奥に、静かな火が灯る。
厄介な相手ほど、勝った時に胸に響く鼓動は大きくなる。
それは、誰に言うことではないし、自分だけの楽しみだ。
だからラズは黙ったまま、バステリオンへと歩みを進めた。




