第20話 お忍び王女
眼鏡をつけるのは慣れない。
視界が微かに遮られ、こめかみが締め付けられているかのようにきつい。黒髪のカツラは軽いが、風が吹くたびに不安になる。それでもこれが必要だと分かっている。
夜が明け、アリスは一人で城下へ降りた。
バステリオンの朝は早い。
鍛冶場では火が上がり、槌の音が奥から響いている。酒場の中から足元がふらつく男達が顔を真っ赤にして出来上がり、露店では魔物肉が並び、朝食を買いにくる民が値段の折衝をしていた。
人が多く、賑わっている。活気でいえば王都やセレスティアより遥かに力強い。
だからこそ、アリスはすぐに違和感に気づいた。
井戸の前に人が並んでいる。
長い列だ。桶を抱えた女性、空の水筒を持った子ども、木箱を持った男が暗い面持ちで順番を待っている。
列の先にあるのは送水魔具。川から街まで水を引っ張ってくるその魔具は、弱々しく回転している。
ちょろちょろと情けない音にゆっくりとした動き。
「いつまでかかるの、これ」
アリスが思わず呟くと、隣の老婆が肩をすくめた。
「出が悪いからね、我慢するしかないんだよ。工房は忙しいって直しちゃくれないからね」
「いつ頃からですか?」
「随分前だよ。毎朝、これがあるから憂鬱でしかたないんだけど」
言葉を受け、アリスは送水魔具に近付いて観察を始める。魔力を回転力に変換する術式が刻まれた胴体。回転する羽を受ける軸に、水を流す導管。構造はセレスティアで学んだ汎用的な魔具に近い。
壊れているというより、弱っている。
だからこそ近くで見ただけでアリスにはわかった。少し触れば直せると。
「ねえ、まだぁ?」
母が持つ桶を覗き込み、不満そうに子供が言った。
「我慢しな。水は命だよ」
諭す声は優しいが、母親も疲れているようだ。
これなら川まで汲みに行った方が早いのでは? と思うほど、水の勢いは弱々しい。とは言えバステリオンから出ると言うことは、魔物に襲われるリスクがある。民が不要に街から出れば、死に直結することだ。
「……気にしてられないわね」
アリスは周りの視線を無視して送水魔具にそっと触れた。
感じた者は魔力の詰まり。屋外という環境で長年使われているせいか、魔力が流れる術式が薄まり、効率が落ちている。水を運ぶ管に詰まりを感じ、さらに固定具が少し緩んで振動していた。
「直すこと自体は難しくなさそうね」
「おい、なに勝手に触ってんだ!」
見張り役だろう、腕にバステリオンの腕章を付けた男がすぐに駆け寄ってきた。
「壊したらどうする、工房も忙しいってのに!」
アリスは怒鳴りに怯むことなく、立ち上がって真正面から対峙する。
「これ、直したいんだけど」
「はぁ? 直すだぁ?」
男が眉をひそめる。周囲の列からも視線が集まった。よそ者が口を出すな、という空気感。
「管の詰まり。固定具の緩み。術式の薄まり。どれもすぐに直せるわ。完全にとはいかないけど、今よりずっといい状態になると思う」
「何言ってんだ。嬢ちゃんがやって直るようなら、誰かがやってる」
「なら、その誰かがいないだけでしょ? そんなに難しいことじゃないもの」
強気の発言に、見張りが唸る。
「……その通りかもねぇ」
小さく言ったのはさっきの老婆。
「前に工房の若いのが触って余計に悪くしたって聞いたよ。だから誰も手を出さねぇんだ。腕が立つのは武器の調整で忙しいから見てもくれない」
「水は大切だと言っておきながらこれだ。困ったもんだよ」
「もう誰でもいいから直してくれ! 毎朝憂鬱でしょうがない!」
老婆の言葉を受けて、列に並ぶ者達が次々と不満を漏らし始める。
アリスは男を見て「どうするの?」と目だけで問うと。
「っち。直せるなら直してみろ。ただし、失敗したら!」
「失敗しない。安心して見てなさい」
アリスは平然と言い切り、送水魔具に向かう。
「工具」
「な、なんだ?」
「さっさと持ってきて。どうせ見てるだけで暇なんでしょ? あなた」
たじろぐ見張り。
強気なアリスに、周囲の視線が「やらせてみろ」に変わり始める。結局、男はため息を漏らしてから、脇に置いてあった工具箱をアリスに差し出す。
「水は我々の生命線だ。何度も言うが壊したら」
「はいはい。生命線を直してあげるんだから、お礼はたんまりもらうからね」
「減らず口はいいから早くやってみやがれ!」
口の回るよそ者に、並んでいる住民から笑い声が上がる。
「あいつ何者だ?」
「昨日きたよそ者だよ。シグレ様が呼んだ武人って話しだったが」
「なんにせよあの口ぶり。変わり者にちげえねえや」
そんな声を背にながらアリスは即座に作業に入った。
魔力の供給を断ち、送水魔具の動きを止める。管の継ぎ目を工具でバラすと、砂鉄と煤の混じった塊がぬるりと出てきた。
「うわ……」
誰かが嫌そうに声を漏らす。
「今はこれでいいけど。あとで全部バラさないとダメかもね。っていうか引き直した方がいいと思うわ」
管の内側を短い棒で掃除し、次に固定具を締め直した。
次に、瞳を閉じて送水魔具に触れ、魔力を流して術式の跡を辿り。
「見つけた。思ったよりは薄れてないわね」
指先に魔力を留めて術式をゆっくりなぞり、書き直す。魔力を魔具に流しながら、丁寧に、ズレのないように、しっかりと指を走らせた。
「こんな感じで充分でしょ。さあ、魔力を流して動かすわよ」
アリスは水送魔具に魔力を送り込むと。
ごとん! と低い音がした。送水魔具の胴体が震え、次の瞬間、羽が勢いよく回り出す。街の外まで伸びる古びた配管が微かに震え、蛇口から一気に水を吐き出した。
空だった桶からすぐに水が溢れ出す。
「わっ、すごい! さっきのと全然ちがうよ、母さん!」
「ほ、ほんと……。信じられない」
子どもが叫び、母親が抱える桶と入れ替える。
「おいおい本当に直ったぞ!」
「大した時間じゃねえぞ、毎日長いこと待たされてたのはなんだったんだよ!」
笑い声と歓声が重なる。桶が次々と満たされていく音が街の朝に広がる。
見張りの男は口を開けたまま固まっていた。
「どう?」
アリスに声を掛けられ、ようやく口を開く。
「なんだよそれ。いま、何した」
「見ての通りよ。ちょっと汚れをとって、ちょっと締め直して、ちょっと術式を魔力で撫でただけ」
アリスは工具を箱に戻しながら淡々と答えた。
「魔具ってそう簡単に壊れるものじゃないのよ。違和感があった時に整備すれば新品同然に効果を発揮するようになるの。さっきみたいにね」
工具箱を差し出すと、見張りは呆然とそれを受け取る。
老婆が近寄ってきて、アリスの腕をぽんと叩いた。
「ありがとうよ。あんた、どこの工房だい? 腕が立つねえ」
「私は工房の人間じゃないですよ。ただの通りすがりの……」
アリスは一瞬だけ迷い、眼鏡を指で持ち上げて答えた。
「困ってる人を見過ごせない。ちょっとお節介なリッドです」
明るくおちゃらけた言葉に、老婆が目を細める。
「リッド……。聞かない名前だねえ。変な子だ。まあともかく、ありがとね!」
戸惑いながらもお礼を伝えてきた老婆に、アリスは微笑み深く頷く。
「おい嬢ちゃん! うちの水路のやつも弱ってんだ、見てくれよ!」
「こっちの炊事魔具も火が弱ぇ! 直せねえのか?」
「工房だ、工房に来い! 常に人が足りてねえんだ! 腕が立つならまず工房!」
一斉に声が響く。
アリスは困ったように頭をかきながら。
「落ち着いてみんな。時間があるうちは見て回るから、一件ずつね。報酬は……。ご飯でいいかしら?」
「それで直してくれるんなら安いもんだ! すぐに来てくれ」
「はいはい。でも、いったん別のところに行くわ。用事があるから」
「なんだよ、ここまで言って逃げんのかよ!」
その言葉に、アリスの眉間に皺が寄る。
「誰が逃げるって言うの! 用事があるって言ったでしょ!
「嘘つけ! 暇そうに散歩してた癖に!」
「散歩も用事! これからやることも用事なの! 水を汲む順番は守れて、こっちの順番は守れないって言うの? 随分と自分がってじゃない!」
周囲が一瞬止まり、次の瞬間、誰かが吹き出した。
「ははっ、言うじゃねぇか、偉そうに!」
「でも正しい! 確かにその通りだ! 毎朝ここでの順番を守れた奴が、客人の順番を守れねえわけがねえ!」
笑いが広がる。
アリスは内心では呆れた溜息を吐きながらも、しかしその笑いが嫌ではなかった。
「で、なんだけど。街を案内してくれない?」
「お、俺に言ってるのか?」
「当たり前でしょ。他に誰がいるのよ」
見張りの男に、アリスは目を細めて詰め寄る。
「生命線を直したんだから、しっかりお礼をして欲しいんだけど」
「だ、だけど。見張りの仕事が」
迷う男を見かねて、先ほどの老婆が口を挟む。
「いいよアンタは。嬢ちゃん、付いて来な。あたしが案内したげるさね」
「いいの?」
「毎日ここに並ぶ手間に比べたら小さいもんさ。あたしはこの街を隅から隅まで知ってるよ。まずは何を見たい?」
にっこり笑う老婆に、アリスも自然と笑みが溢れる。
「じゃあまずは外壁の上から街の全体の把握と、周辺の状態を」
すぐにその場を離れようと歩き出し。
「絶対うちに来てくれよ! 逃げたら許さねえからな!」
「行くっていってるでしょ! 逃げるって私に言わないでくれる!? その言葉、嫌いなの!」
「なんだこの野郎! じゃあ絶対に来いよな!」
「チヨ婆、その客人ひとりじめするなよ!」
「アンタはアタシよりこの街に詳しいのかい?」
「そ、そりゃ……。アンタより詳しい人はいねえだろ」
列から飛んでくる言葉に答えながらその場を離れる。
その日、アリスとチヨ婆は一日かけて、街を歩き回ったのであった。




