89.
ゲータニィガ王国の王城は、終わりの見えない粛清の嵐に吹き荒れていた。
かつては王族が座していた豪奢な玉座の間。
ミシェルはその中央に急造された執務机に陣取り、恐るべき速度で書類の山を処理し続けていた。
彼女の万年筆が一度走るたびに、王国の歴史に名を連ねていた大貴族たちが、次々とその地位と財産を剥奪されていく。
「東部の領主、バートレット侯爵。凶作に乗じて穀物を不当に買い占め、価格を意図的に釣り上げて莫大な利益を得ていましたね。これは明確な国家反逆行為です。全財産没収の上、領地は帝国直轄領として編入します」
「ひ、ひぃぃ。お慈悲をっ。私がいなくなれば、東部の経済は回りませんぞっ」
「慈悲を乞う暇があるなら、強制労働施設での生産性向上について考えてください。貴方のような寄生虫がいなくなっても経済は回ります。すでに後任として、貴方が不当に左遷していた若手の優秀な文官を新たな領主代行に任命済みです。次」
ミシェルは冷酷に言い捨て、涙と鼻水にまみれて近衛兵に引きずられていく侯爵を一瞥だにしなかった。
彼女は空席になった重要なポストに対し、次々と新しい人員を配置していく。
事前に帝国の情報網を使って選別しておいた、実直だが不遇をかこっていた若手官僚や、ミシェルに忠誠を誓う者たちへと、容赦なく首をすげ替えていくのだ。
「これで主要な省庁のトップは、すべて帝国寄りの人間に入れ替わりましたね。見事なまでの乗っ取りですぅ」
隣で書類を整理している副官のティルが、青ざめた顔で引きつった笑いを浮かべる。
「乗っ取りではありません。正常化です。腐りきった土台の上に新しい家は建ちませんからね。一度完全に更地にして、清潔な部品に交換する必要があるのです」
ミシェルは中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、涼しい顔で次の調書を手に取った。
その時であった。
開け放たれたバルコニーの窓から、音もなく複数の黒い影が執務室へと滑り込んできた。
王国を牛耳っていた裏社会の暗殺ギルドの精鋭たちである。
地位も財産もすべて奪われ、完全に追い詰められた悪徳貴族たちが、なけなしの裏金で雇った最後の一手であった。
「死ねぇっ、冷徹妃っ」
黒装束の暗殺者たちが、致死毒を塗った短剣や凶悪な鉤爪を構え、四方からミシェルへと襲いかかる。
常人であれば、悲鳴を上げる間もなく命を刈り取られていたであろう、洗練された死の包囲網。
しかし。
ミシェルは手元の書類から一切目を離さず、瞬き一つしなかった。
ペンを走らせる手すら、ただの一度も止めることはない。
なぜなら、彼女のすぐ背後には、絶対的な守護者が控えているからだ。
「俺の女に、薄汚い刃を向けるな」
地鳴りのような低い声と共に、巨大な鋼の壁がミシェルの前に立ち塞がった。
皇帝ギデオンである。
彼は飛びかかってきた暗殺者の一人を、大丸太のような太い腕で無造作に薙ぎ払った。
「ぐはぁっ」
それだけで暗殺者の体は木の葉のように宙を舞い、分厚い大理石の柱に激突してぐったりと崩れ落ちる。
残る暗殺者たちが驚愕に目を見開く中、ギデオンは凶悪な笑みを浮かべて首の骨をゴキゴキと鳴らした。
「ネズミどもが。俺が横にいるとわかっていて襲撃をかけるとは、いい度胸だ。お前らの雇い主は、よほど知能が足りないらしいな」
暗殺者たちが次々と毒矢や投げナイフを放つが、ギデオンは避けることすらしない。
彼の纏う常軌を逸した濃密な闘気と、鋼鉄のように鍛え上げられた肉体の前に、刃はすべて弾き返され、猛毒は皮膚の表面を傷つけることすらできなかった。
「な、ばかな。化け物か……っ」
「さて。俺のミシェルは今、仕事で忙しいのだ。邪魔者は静かに片付けてやろう」
ギデオンが一歩踏み込むと、床の石畳が蜘蛛の巣状に砕け散る。
そこからは一方的な蹂躙であった。
凄まじい衝撃音と、暗殺者たちの短い悲鳴が幾度か上がった後、執務室には再び元の静寂が戻ってきた。
「ふん。他愛もない。準備運動にもならなかったな」
ギデオンは服の埃を払い、満足げに鼻を鳴らす。
足元には、完全に気を失って積み重なった暗殺者たちの山ができあがっていた。
その間、ミシェルはただの一度も顔を上げなかった。
背後で血肉の飛び交う戦闘が行われていようと、ギデオンがすべてを完璧に処理してくれると、絶対の信頼を置いているからだ。
「ギデオン。少し埃が立ちましたよ。書類が汚れますから、床のゴミは早く外に捨ててきてください」
「おう、任せておけ。すぐに掃除してやるからな」
ミシェルの事務的な指示に、ギデオンは嬉しそうに頷き、暗殺者たちを俵のように抱え上げて窓の外へと放り投げていく。
どうだ俺は強いだろうとばかりに、見えない尻尾をちぎれんばかりに振ってアピールしている。
そのあまりにも日常的なやり取りに、ティルは完全に言葉を失っていた。
「ミ、ミシェル様。普通、暗殺されかけたら、もう少し取り乱すものではないですかぁっ。心臓が止まるかと思いましたよぉ」
「なぜ取り乱す必要があるのですか。ギデオンがいる以上、わたしに危険が及ぶ確率など、計算するまでもありません。それより、時間の無駄です。次の者の告発状を出しなさい」
ミシェルは涼しい顔で、新しいペン先にインクを浸した。
少し離れた部屋の隅では、大賢者ピクシーが張った防音結界の中で、カイウスが平和に積み木遊びをしている。
血生臭い暗殺劇など微塵も気づいていない様子に、ミシェルは密かに安堵の息を吐いた。
その完璧なまでの冷静さと、武力による絶対的な制圧。
壁際で震えながらその光景を見ていた残りの貴族たちは、ここでようやく完全に理解した。
政治的な裏工作も、物理的な暴力も、この二人には一切通用しない。
自分たちが生き残る道は、冷徹妃の裁きを大人しく受け入れ、すべてを差し出す以外にないのだと。
「さあ、夜明けまでにすべての膿を出し切りますよ。覚悟の決まった者から前に出なさい」
ミシェルの氷のように澄んだ声が、絶望に染まった城内に響き渡る。
彼女の背後では、ギデオンが誇らしげに腕を組み、誰一人として近づけない無敵の城壁としてそびえ立っていた。




