76.
夜の静寂に包まれた帝城の一室。
カイウスを無事にベッドへと寝かしつけた後、ギデオンは隣室で山のような書類と格闘していたミシェルの元を訪れた。
彼は静かに扉を閉めると、カイウスが隠れて吐いていたこと、それが過去の虐待によるトラウマからくる拒食の症状であることを、包み隠さず伝えた。
ミシェルが作った美味しい食事を吐きたくなくて、必死に飲み込み、誰の目にもつかない手洗い場でこっそりと戻していたのだという、カイウスの健気で痛ましい心情も添えて。
報告を聞き終えたミシェルの手から、羽ペンがぽろりとこぼれ落ちた。
コツン、と乾いた音が静かな部屋に響く。
「わたしは……何という失態を」
ミシェルは両手で顔を覆い、深く、ひどく沈痛な声で零した。
氷のように冷たく、常に完璧な計算で物事を処理してきた彼女の肩が、微かに震えている。
「あの子の体重が増加しない原因を、代謝の異常か栄養素の配合ミスだとばかり考えていました。精神的なストレスが胃腸に与える影響という、ごく基本的なデータを見落としていたなんて。あの子に、吐くほど無理をさせていたことにすら気づけないとは」
ギリッと、ミシェルが自らの唇を噛み締める。
自責の念に駆られ、己の不甲斐なさを嘆く彼女の姿は、普段の冷徹な事務官からは想像もつかないほど弱々しかった。
ギデオンは大きなため息をつき、巨大な体を丸めて彼女の執務机の前にしゃがみ込んだ。
「気にするな、とは言わない」
ギデオンは低く、しかし温かみのある声で語りかける。
「そう言ったところで、お前は気にするだろう。己のデータ収集の甘さと、観察不足を徹底的に呪うはずだ。お前はそういう女だからな」
ミシェルが顔を覆っていた手を少しだけずらし、氷色の瞳でギデオンを見つめる。
「だから、次から気をつけてやればいいだけの話だ」
ギデオンは大きな手で、ミシェルの銀色の髪を少し乱暴に撫でた。
「今はまだ、あいつの体は固形物を受け付けないのだろう。ならば、消化の良いスープをさらに裏ごしするか、あるいは果実を絞った汁から少しずつ慣らしていけばいい。お前のその優秀な頭脳なら、無理なく栄養を摂取させる代替案など、いくらでも思いつくだろう」
「……」
「失敗はエラーに過ぎん。正しい手順を学び、反復すればいい。お前がいつも、俺たちに言っていることだぞ」
それは、ミシェル自身がカイウスに対してかけた言葉でもあった。
その言葉をギデオンから返され、ミシェルはゆっくりと瞬きをする。
張り詰めていた空気がふわりと緩み、彼女の表情から深い後悔の念が少しずつ薄れていった。
「そうですね」
ミシェルは眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、いつもの冷静さを取り戻すように小さく息を吐いた。
そして、ほんのわずかに口角を上げ、静かな湖面のような優しい瞳でギデオンを見上げる。
「貴方の言う通りです。貴重なデータを修正する機会を得られました。……ありがとう、ギデオン」
それは、普段の塩対応からは考えられないほど、素直で、心からの感謝の言葉だった。
「はっ」
不意打ちで放たれたミシェルの柔らかな笑顔と、自分を頼りにしてくれた感謝の言葉。
それを真正面から浴びたギデオンは、雷に打たれたように目を丸くし、そのまま大きくのけぞった。
「お、俺に……惚れたか、ついに。そうだろう、俺のこの皇帝としての器の大きさと、男らしい包容力に、ついに陥落したというわけだな」
ギデオンの顔はみるみるうちに真っ赤に染まり、立ち上がって見えない尻尾を千切れるほど激しく振り始める。
「…………」
ミシェルは完全に真顔に戻り、絶対零度の冷気を纏った瞳で、一人で舞い上がっている巨大な皇帝を見上げた。
そして、床に落ちていた羽ペンを拾い上げ、インク瓶に突き立てる。
「では、データ修正のついでに、貴方の存在もこの執務室から消去しておきますね。さっさと自室へ戻って寝なさい、このバカ皇帝」
「なぜだ。今のは完全に良い雰囲気だったではないか。ミシェル、照れ隠しはしなくていいのだぞ」
「ギデオン。出てけ」
ギデオンは未練たらたらな様子で部屋を追い出されていく。
その騒がしいやり取りを背中で聞きながら、ミシェルは再び新しい羊皮紙に向かい、カイウスのための特別な献立表を書き始めるのであった。




