75.
帝城での本格的な子育てが始まってから、数日が経過していた。
冷徹妃として国政を回す傍ら、ミシェルは不器用ながらも全力でカイウスの世話を焼いていた。
しかし、大きな問題が一つあった。
栄養価の高い食事を毎食用意しているにもかかわらず、カイウスの頬は一向にふっくらとせず、体重も増える気配がないのだ。
ミシェルは医学書や子育て本を山のように読み漁り、宮廷医のフローラにも相談したが、身体的な異常は見当たらないという結論しか出なかった。
理由が分からず、ミシェルの眉間のシワは日に日に深くなっていく。
そんなある日の夜。
ギデオンは自室で執務を終え、廊下の奥にある手洗い場へと向かっていた。
暗い廊下を歩いていると、微かに苦しそうな音が聞こえてきた。
水場で誰かが背中を丸め、胃の中のものを吐き出している音だ。
ギデオンが音を殺して近づき、上からぬぅと覗き込むと、そこには小さな背中を震わせているカイウスの姿があった。
「なんだお前、どうした」
ギデオンが低く声をかける。
カイウスはびくっと肩を跳ねさせ、弾かれたように振り返った。
青ざめた顔には恐怖が張り付き、今にも怒鳴られ、殴られるのだと覚悟してギュッと目を瞑る。
しかし、巨大な皇帝は怒ることもなく、静かに膝をついた。
ギデオンは手際よく水場を洗い流すと、コップに新しい水を汲んでカイウスの口元へ差し出した。
「ほら、口をゆすげ。すっきりするぞ」
促されるままに水を含み、吐き出すと、胃の不快感が少しだけ和らいだ。
ギデオンは清潔な布でカイウスの口元を優しく拭い、静かに問いかける。
「お前、もしかして拒食症か」
カイウスが驚いたように目を丸くする。
図星を突かれた反応を見て、ギデオンは深く納得したように頷いた。
「やはりか。実はな、俺も昔はそうだったのだ」
ギデオンは冷たい石の床にどっかりと腰を下ろし、遠い目をして語り始めた。
「皇族というのは、若いうちは特に殺したい連中が多くてな。俺の食事には、毎日のように毒物が混ぜられていたのだ。おかげで毒への耐性はついたが、飯を食うこと自体がすっかり怖くなってしまった時期があった」
「……」
カイウスは身を乗り出し、自分と同じ痛みを知る大男の言葉にじっと耳を傾けている。
「お前は偉いな。あの食堂の場では、決して吐かなかった」
ギデオンは大きな手で、カイウスの金糸の髪をゆっくりと撫でた。
「ミシェルに気を遣ったのだろう。あいつがお前のために、美味しくて栄養のある食事を用意してくれていると分かっているから、吐きたくなかった。でも、恐怖を覚えている体が受け付けない。だから、ここまで我慢して、こっそりと吐いた」
その優しい声に、カイウスの瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ギデオンは困ったように眉を下げ、自嘲するように鼻を鳴らす。
「俺などは、作ってくれた料理人の前で構わずゲロをぶちまけていたがな」
その自虐的な冗談に、泣きじゃくっていたカイウスがくすっと小さな笑い声を漏らす。
少しだけ場の空気が和らいだのを見て、ギデオンは立ち上がった。
「お前から言い出しにくいなら、俺がミシェルに言ってやろう」
途端に、カイウスがぶんぶんと激しく首を横に振った。
せっかく優しくしてくれているミシェルを、悲しませたくないのだという強い意志が伝わってくる。
だが、ギデオンは真剣な眼差しで彼を見つめ返した。
「駄目だ。ミシェルには知っておく権利がある。それに、俺は皇帝として学んだのだ。一人でどうにもならない時は、素直に誰かに頼るべきだとな」
ギデオンはカイウスの小さな肩に手を置き、真っ直ぐに言い聞かせる。
「それを怠れば、どれだけ実力主義をうたっている国であっても、あっという間に腐敗してしまう。人間も同じだ。相談することは、何も悪いことじゃない。一人で抱え込むな。いいな」
大国の皇帝としての威厳と、不器用な兄としての深い愛情。
その両方が込められた言葉に、カイウスはぽろぽろと涙を流しながら、こくりと小さく頷いた。
「よし」
ギデオンは満足げに笑い、カイウスの小さな手を引いて、ミシェルの待つ部屋へと歩き出すのであった。




