72.
騒がしい顔合わせが一段落した後、ミシェルは怯えきったカイウスを連れて大浴場へと向かった。
本来であれば侍女たちに任せるべき仕事であったが、見知らぬ大人に囲まれてパニックを起こしている幼児をこれ以上刺激するのは非効率だと判断したためだ。
カイウスは、見たこともないほど広大で豪華な浴室を前にして、ミシェルのドレスの裾をぎゅっと握りしめて離そうとしなかった。
暗く冷たい地下室で、凍えるような水しか知らなかった彼にとって、立ち込める白く温かな湯気は未知の脅威に映ったのだろう。
ミシェルは静かに腕まくりをすると、慣れない手つきでカイウスの服を脱がせていった。
露わになった小さな体は、あばら骨が浮き出るほどに痩せ細っており、至る所に古い傷跡や痣が残っていた。
それを見たミシェルの瞳が、一瞬だけ鋭く、冷たい光を宿す。
ミシェルは何も言わず、まずは手桶で温かいお湯をカイウスの足元からゆっくりとかけていった。
カイウスはびくりと体を跳ねさせたが、肌を包み込む柔らかな温かさに気づくと、不思議そうに自分の足元を見つめた。
ふわふわと泡立てられた石鹸からは、最高級のラベンダーの香りが漂う。
ミシェルは細く白い指で、カイウスの金糸のような髪を丁寧に洗っていった。
指先から伝わるカイウスの心音は、最初は小刻みに震えていたが、お湯の温度に溶かされるように次第に落ち着きを取り戻していく。
湯船に浸かると、カイウスはふぅ、と小さく吐息を漏らした。
初めて知る、心まで解きほぐされるような温もり。
その頬には、ようやくわずかながらの赤みが差し、虚ろだった瞳に微かな生気が宿り始めていた。
入浴を終え、清潔な寝着に身を包んだカイウスを待っていたのは、湯気を立てる温かな食事であった。
部屋に運び込まれたのは、新鮮な野菜と鶏肉をじっくりと煮込んだ、真っ白でクリーミーなポタージュスープだ。
ふわりと食欲をそそる芳醇なバターの香りが、部屋中に広がっていく。
空腹に耐えかねたカイウスは、差し出された銀のスプーンを小さな手で必死に握りしめた。
しかし、これまでまともに道具を使って食事をしたことなどない彼の手元はおぼつかない。
震える手でスープを運ぼうとした瞬間、スプーンが滑り、ポタージュが真っ白なテーブルクロスの上に無残にこぼれ落ちた。
カシャン、と銀のスプーンが床に落ちる。
カイウスは真っ青になり、椅子の上でガタガタと震え出した。
(叩かれるっ)
彼は本能的に頭を抱え、きゅっと目を瞑って衝撃に備えた。
かつて彼がいた場所では、粗相をすれば容赦のない罵倒と暴力が降ってきたからだ。
小さな背中を丸め、嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜める。
しかし、どれだけ待っても痛みはやってこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、衣擦れの柔らかな音と、いつもの冷静で淡々とした声であった。
「怯える必要はありません。失敗は、経験不足によるエラーに過ぎません。正しい手順を学び、反復すればよいだけのことです」
ミシェルはシルクのハンカチでテーブルの汚れを無造作に拭き取ると、新しいスプーンを手に取った。
そしてカイウスの背後に回り込み、彼の小さな手を包み込むようにして自分の手を重ねた。
初めて触れる、自分よりも少しだけ大きな、しかし温かく柔らかな誰かの手。
ミシェルはカイウスの手を優しく導き、スープを掬って、ゆっくりと彼の口元へと運んでいく。
「さあ、飲みなさい。温かいうちに摂取しなければ、栄養価の効率が落ちますよ」
促されるままに口を開けると、濃厚で優しい甘みが舌の上に広がった。
胃の奥まで染み渡るような温かさに、カイウスの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
泣きながらも、カイウスはミシェルの手に支えられ、必死にスープを飲み続けた。
ミシェルは面倒そうに眉を寄せつつも、その手が離れることはなかった。
彼女は、カイウスが完全に食べ終えるまで、根気強くその動作を繰り返したのである。
一方、そんな感動的な光景を、扉の隙間から息を殺して見つめている巨大な影があった。
帝国を統べる覇王、ギデオンである。
彼は柱の陰に隠れ、持っていたハンカチをギリィッと奥歯で噛み締めていた。
「うらやましいっ。ずるすぎるぞ、あのガキっ」
ギデオンは凶悪な面構えを歪ませ、情けなくも嫉妬の炎を燃やしていた。
自分ですら、ミシェルに手を添えてもらって食事をしたことなどないのだ。
ミシェルの献身的な介護を受け、あまつさえ頭まで撫でられているカイウスの姿に、皇帝の独占欲が爆発寸前であった。
「俺も、俺もミシェルに『あーん』をしてもらいたいっ。ポタージュをこぼせばやってくれるだろうかっ」
「……三歳児と張り合ってどうするんですぅ」
皇帝の背後から、呆れ果てた副官のティルの声が響いた。
彼女はジト目で巨大な主君を見上げ、深い深いため息をつく。
「陛下、いい歳をした大人が、スープをこぼして食べさせてもらうなんて、ただの介護案件ですぅ。不敬を通り越して、ミシェル様に真顔で『スクラップ処理が必要ですね』と言われるのがオチですぅ」
「うるさいっ。お前に俺のこの切実な想いがわかるかっ」
「わからなくていいですぅ。それより仕事に戻るですよ、バカ皇帝陛下。ミシェル様の残業を増やして、また正座させられたいんですかっ」
ティルに耳を引っ張られるようにして、ギデオンは未練たらたらといった様子で引きずられていく。
巨大な体を丸めて項垂れる皇帝と、毒づきながら彼を追いたてる小さな副官。
そんな騒がしい大人たちの気配に、お腹を満たしたカイウスは、ミシェルの温かな手の中で、生まれて初めて安らかな眠りに落ちていくのであった。
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