73.
帝城で与えられた新しい部屋は、どこまでも暖かく、そして恐ろしいほどに静かだった。
冷暖房の魔導具が心地よい室温を保ち、部屋の中央には雲のように白く分厚い天蓋付きのベッドが置かれている。
しかし、三歳のカイウスはそこに横たわることはできず、部屋の隅の最も暗い場所で、小さな膝を抱えてガタガタと震えていた。
彼にとって、夜という時間は恐怖と苦痛の象徴でしかなかったのだ。
辺境の修道院の地下室では、日が落ちると不機嫌な大人たちが安酒を飲み、大声で暴れ回っていた。
カイウスに与えられていたのは、カビの臭いが染み付いた冷たい石の床と、虫の這う一握りの硬い藁だけである。
もしも寝返りを打って、カサリと藁の音を立ててしまえばどうなるか。
酔った大人たちの怒鳴り声と共に、容赦のない硬い靴の蹴りが暗闇から飛んできたのだ。
息をする音すらも殺し、体を小さく丸めて朝が来るのを待つ。その凄惨な記憶が、カイウスの思考を縛り付けていた。
「こんなところで縮こまって、どうしたのですか」
静かな声と共に、重厚な扉がゆっくりと開いた。
廊下の淡い灯りを背にして立っていたのは、微かなインクと甘いラベンダーの香りを漂わせた冷徹妃ミシェルである。
カイウスはビクッと小さな肩を跳ねさせ、また蹴られるのだと思って両手で頭を庇い、きゅっと目を瞑った。
「おいで」
しかし、ミシェルは無理やり彼を引きずり出すような乱暴な真似はしなかった。
彼女は最高級のシルクのドレスが床の埃で汚れるのも厭わず、少し離れた場所で静かに膝をつき、両腕を広げて待っていてくれたのだ。
その氷のように澄んだ青い瞳があまりにも穏やかだったため、カイウスはおそるおそる立ち上がる。
よちよちと頼りない足取りで進み、すがるように彼女の胸の中に飛び込んだ。
ミシェルは小さな体をふわりと抱き上げると、そのまま自分の寝室にある、さらに広くてふかふかなベッドへと彼を連れて行く。
洗い立ての清潔なシーツの匂いがするベッドに横たわらせ、ミシェルはカイウスを冷えないように厚手の毛布でくるんだ。
そして自分も隣に横たわり、彼をぎゅっと抱きしめる。
トントン、と。一定の心地よいリズムで、優しく背中を叩いてくれた。
とても温かくて、ひどく安心する音がする。
どうしてこの人は、自分のようなものにこんなにも優しくしてくれるのだろうか。
カイウスは不思議な安らぎの中で、ゆっくりと重くなる瞼を閉じようとした。
その時である。
ズシン、ズシンと廊下を揺らすような重い足音が近づいてきたかと思うと、ギィィと無遠慮に扉が開いた。
「俺も一緒に寝てやろうと思ってな」
自分の枕を小脇に抱えた、巨大な皇帝ギデオンが堂々と侵入してきたのである。
筋骨隆々の恐ろしい魔王のような大男が、普通のサイズの枕を大事そうに抱えている姿は、ひどく滑稽であった。
彼はベッドで寄り添う二人を見ると、なぜか焦ったように視線を泳がせた。
そして、わざとらしくそっぽを向きながら、誰がどう聞いても見え透いた馬鹿な言い訳を口走る。
「おっと、勘違いするなよ。別に俺は、ミシェルと同じベッドで寝たいとか、全くそんなことは思っていないからな。ただ、広いベッドの方がガキも安心して眠れるだろうという、皇帝としての寛大な配慮だ」
ミシェルは寝かしつけの手を止めることなく、絶対零度の瞳で巨大な皇帝を射抜いた。
部屋の温度が急激に下がり、ギデオンの巨体がびくりと震え上がる。
「幼児の貴重な睡眠時間を妨害するなど、言語道断です。自分の部屋へ戻り、一人で寝なさい」
「だが、俺も最近は政務の疲れで夜眠れなくてだな。誰かの温もりがあれば、明日の公務にも良い影響が出ると思うのだが」
「スクラップにしますよ」
「はい」
ミシェルの氷のような一言に、ギデオンはガックリと項垂れ、そのまま崩れ落ちるようにして床に膝をついた。
さらにそのままのけぞり、絶望したように天井を仰ぎ見ている。
そして、しょんぼりと丸めた巨大な背中を向け、この世の終わりのような足取りで部屋を出ていく。
バタン、と静かに扉が閉まる。
再び訪れた静寂の中、ミシェルは呆れたように小さく息を吐き、カイウスの背中をトントンと叩き始めた。
規則的なリズムと、微かな甘い香りに包まれて。
カイウスは温かい腕の中でまどろみながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
どうしてあの大きなお兄ちゃんは、あんなにも幼いのだろうか。
三歳児の心にすら呆れられながら、情けない皇帝の夜は更けていくのであった。




