第98話 それでも一人で立つ
朝、女性は隣にいなかった。
昨日までの位置は空いている。
少しだけ、空気が軽い。
私はそのまま歩く。
小道を抜けて、川辺へ向かう。
石に腰を下ろす。
水は変わらず流れている。
しばらくして、足音が聞こえる。
ゆっくりと。
だが、止まらない。
振り向かない。
女性は、後ろで立ち止まる。
距離は、少しだけ離れている。
昨日よりも、はっきりと。
「……昨日の続きですが」
声は落ち着いている。
「ええ」
私は水面を見る。
「選ばないことにしました」
「そうですか」
「近くにいることも、選びました」
少し間が空く。
風が流れる。
「でも」
女性の声が、少しだけ変わる。
「それでも、同じでした」
私は答えない。
「楽にはなりました」
「ええ」
「でも、変わらなかった」
その言葉は、静かだった。
だが、はっきりしている。
午前中、女性は一度も近づかなかった。
遠くにいる。
視線は向けるが、来ない。
足が動かないのではない。
動かさない。
昼過ぎ、食堂に入る。
女性は席を選ぶ。
迷いはある。
だが、私を見ない。
そのまま座る。
少し時間がかかる。
だが、決める。
午後、庭に出る。
女性はベンチに座っている。
一人で。
立ち上がらない。
動かない。
ただ、そこにいる。
私は少し離れた場所に座る。
声はかけない。
しばらくして、女性が立ち上がる。
ゆっくり歩く。
そして――
こちらに来ない。
そのまま通り過ぎる。
足が止まらない。
それだけで、変化だった。
夕方、女性が言う。
距離は保ったまま。
「……離れても」
「ええ」
「怖いままでした」
私は水面を見る。
「そうでしょう」
女性は少し笑う。
「でも」
少し間を置く。
「一人でも、立てました」
風が流れる。
その言葉は、小さかった。
だが、確かだった。
夜、部屋に戻る。
窓を開ける。
風は変わらない。
離れること。
それは楽ではない。
だが、できるようになった。
私は灯りを落とす。
女性は、初めて自分で離れた。
それでも――
この距離を、保てるかはまだ分からない。
ついに「自分で離れる」段階まで来ました。
ここはこの章の一つの到達点です。
ただし、これはゴールではなく“スタート”。
ここから本当の意味での関係と距離が描かれていきます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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次話、少しだけ空気が変わります。




