第92話 見えない支え
朝、庭に出ると、女性はもう動いていた。
ベンチの前ではない。
小道の途中で立ち止まっている。
昨日より、少しだけ中に入っている位置だった。
私はそのまま歩く。
視線は合わせない。
女性は私に気づいている。
だが、呼び止めない。
足を一歩、前に出す。
止まる。
また一歩。
止まる。
その繰り返し。
迷いながら進んでいる。
川辺に着く。
私は石に腰を下ろす。
しばらくして、女性が少し離れた場所に立つ。
距離は昨日より近い。
だが、まだ声はかけない。
風が流れる。
水の音が続く。
「……ここに」
女性が小さく言う。
私は視線を上げない。
「ここに、立っていてもいいですか」
問いというより、確認だった。
「ご自由に」
短く返す。
女性はしばらく立ったまま、
川を見る。
逃げない。
戻らない。
それだけで、変化だった。
午前中、女性は庭を歩いた。
ベンチの前で止まる。
昨日と同じ場所。
だが、違う。
今度は、手が動いた。
ベンチの背に触れる。
離す。
また触れる。
そして――
ゆっくりと、腰を下ろした。
すぐに立ち上がる。
だが、もう一度座る。
今度は、少し長い。
誰も見ていない。
誰も何も言わない。
それでいい。
昼過ぎ、食堂に入る。
女性は入口で止まる。
昨日と同じ。
だが、違う。
今日は、一歩進む。
そして、空いている席の前で立つ。
座る。
すぐに立ち上がる。
もう一度座る。
今度は、そのまま。
手は少し震えている。
だが、逃げない。
食事が運ばれる。
女性はゆっくりと口にする。
周囲を見ない。
ただ、自分の前を見る。
午後、庭に戻る。
女性はベンチに座っている。
今度は立ち上がらない。
ただ、座っている。
視線は少し落ち着いている。
私は少し離れた場所に座る。
声はかけない。
必要がないから。
夕方、女性が言う。
「……座れました」
独り言のようだった。
私は頷かない。
言葉も返さない。
それでいい。
女性は少し笑う。
小さな笑みだった。
夜、部屋に戻る。
窓を開ける。
風は変わらない。
見えない支え。
それは、手を引くことではない。
選ばせることでもない。
ただ、選べる距離にいること。
私は灯りを落とす。
女性は、初めて選んだ。
だが――
それを、続けられるかはまだ分からない。
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