第91話 距離の理由
朝、女性は同じ場所にいなかった。
ベンチの前は空いている。
私は小道を歩き、そのまま川辺へ向かう。
少し遅れて、足音が聞こえた。
速くはない。
だが、迷っている足取りでもない。
振り返ると、女性がいた。
昨日より少し近い位置に立っている。
「……昨日のことですが」
「ええ」
彼女は言葉を探す。
「決めてもらえないと、困ります」
その言い方は、はっきりしていた。
私は水面を見る。
「困っているなら」
女性が少し前に出る。
「はい」
「自分で決める必要があります」
女性の動きが止まる。
「……それができないから、困っているんです」
私は頷く。
「そうでしょう」
それ以上は言わない。
女性は唇を噛む。
「どうして、教えてくれないんですか」
その声は昨日より強い。
「少しだけでいいんです」
私は振り向かない。
「どこに座ればいいか」
「何をすればいいか」
「それだけでいい」
言葉が重なる。
「それなら、できます」
私は静かに答える。
「それは、私が選んだことになります」
女性は息を止める。
「……それでいいんです」
私は首を横に振る。
「よくありません」
女性の表情が揺れる。
「なぜですか」
「選ばないままになるので」
しばらく沈黙が続く。
風が葉を揺らす。
女性は視線を落とす。
「選ばなくても、困らないなら」
私は続ける。
「それでもいいのかもしれません」
女性は顔を上げる。
「でも」
私は言う。
「今は困っている」
女性は何も言えない。
その通りだった。
午前中、女性は庭を歩いていた。
ベンチの前で立ち止まる。
座ろうとして、やめる。
また歩く。
繰り返す。
私は遠くから見るだけ。
誰も声をかけない。
誰も決めない。
昼過ぎ、食堂に入る。
女性は入口で立ち止まる。
だが、今日は少しだけ違った。
一歩だけ進む。
そして、また止まる。
それでも、昨日よりは進んでいる。
席には座らない。
だが、戻らない。
夕方、川辺に立つ。
女性は少し離れた場所にいる。
昨日より近い。
だが、まだ遠い。
「……どうして」
女性が言う。
「どうして、誰も助けてくれないんですか」
私は水面を見る。
「助けていないわけではありません」
女性は顔を上げる。
「え?」
「決めないことが、助けになることもあります」
女性は理解できない顔をする。
当然だった。
夜、部屋に戻る。
窓を開ける。
風は変わらない。
距離を取る理由。
それは冷たさではない。
選べるようになるための距離。
私は灯りを落とす。
女性はまだ選べない。
だが、昨日より少しだけ近づいている。
その変化が、崩れるのか。
それとも続くのか。
まだ、分からなかった。
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