第90話 同じ場所にいる人
朝、同じ場所にその女性が立っていた。
昨日と同じ、ベンチの前。
座っていない。
足の位置も、ほとんど変わっていない。
私は小道を歩き、そのまま通り過ぎる。
声はかけない。
女性は私に気づくが、呼び止めない。
ただ、視線だけが追ってくる。
そのまま川辺に向かう。
水は変わらず流れている。
少し遅れて、足音が近づいた。
「……あの」
振り返ると、女性が立っている。
距離は遠い。
近づきすぎないようにしているのか、
踏み込めないのか。
「何か」
私は短く返す。
女性は言葉を選ぶ。
「どこにいればいいのか、分からなくて」
「そうですか」
それ以上は続けない。
女性は少し困った顔をする。
「皆さん、自然に過ごされていますが」
「ええ」
「どうやって決めているのですか」
私は水面を見る。
「決めていないのかもしれません」
女性は沈黙する。
理解できないという表情だった。
「……私は」
少し間が空く。
「決めるのが苦手で」
私は何も言わない。
女性は続ける。
「いつも、誰かが決めてくれました」
その言葉は、静かだった。
だが、重い。
「家でも、仕事でも」
彼女は目を伏せる。
「自分で選んだことが、あまりありません」
私は少しだけ視線を向ける。
女性は手を握る。
「ここに来れば、何か決まっていると思っていました」
「ええ」
「ですが、何も決まっていない」
私は頷く。
「困っていますか」
女性はすぐに答えない。
やがて、はっきりと言う。
「困っています」
その言葉は、初めて迷いがなかった。
私は少し考える。
「では」
女性は顔を上げる。
期待するように。
「どうすればいいですか」
私は答えない。
風が少し強くなる。
女性の表情が揺れる。
「教えていただけませんか」
その言葉は、少しだけ近づいていた。
依存の形だった。
私は水面を見る。
「私は決めません」
女性は固まる。
「……なぜですか」
「決めると、選ばなくてよくなるので」
女性は息を止める。
「それでは、楽になれません」
私は少しだけ考える。
「楽になることが目的ですか」
女性は答えない。
だが、その沈黙が答えだった。
午前中、女性は再びベンチの前に立っていた。
今度は座ろうとして、やめる。
また立つ。
何度も繰り返す。
誰も助けない。
誰も声をかけない。
それでも時間は進む。
昼過ぎ、食堂で女性は席を選べずにいた。
入口で立ち止まる。
周囲を見回す。
「どこでもいいですよ」
誰かが言う。
だが女性は動かない。
「どこでも、が分からないんです」
その声は小さかった。
夕方、庭に出る。
女性はまだ同じ場所にいる。
少しだけ疲れている。
私は近くを通る。
女性が言う。
「……選べません」
「そうですか」
「誰かに決めてほしい」
私は足を止める。
女性は真っ直ぐこちらを見る。
「お願いします」
その言葉は、はっきりしていた。
夜、部屋に戻る。
窓を開ける。
風は変わらない。
選べない人。
その人は、ここでは一番困る。
私は灯りを落とす。
答えを求める声は、
まだ消えていなかった。
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