第93話 選べないままの揺れ
朝、庭に出たとき、女性はベンチにいなかった。
代わりに、小道の途中で立ち止まっている。
昨日、座れた場所には近づいていない。
少しだけ、離れている。
私はそのまま歩く。
女性は気づいている。
だが、声はかけてこない。
足が止まっている。
進めないのだろう。
川辺に向かう。
水は変わらず流れている。
しばらくして、足音が近づく。
昨日よりも遅い。
重い。
「……座れたのに」
女性の声は小さかった。
私は振り向かない。
「ええ」
短く返す。
「昨日は、できたんです」
「そうですね」
「でも、今日は」
言葉が途切れる。
女性はその場で立ち止まる。
「できません」
その一言は、はっきりしていた。
私は水面を見る。
「困っていますか」
少し間が空く。
「……はい」
昨日と同じ答え。
だが、意味が違う。
一度できた後の「困っている」だった。
「どうしてでしょう」
女性が言う。
「分かりません」
私は答えない。
理由を与えると、また依存になる。
風が少し強くなる。
女性の足が一歩動く。
だが、すぐに止まる。
「昨日は、何も考えなかったんです」
彼女が続ける。
「ただ、座ろうと思って」
「ええ」
「今日は、考えてしまう」
私は少しだけ目を閉じる。
「うまくやろうと」
女性はうなずく。
「失敗したくなくて」
その言葉に、ラウルの影が重なる。
だが違う。
こちらは、もっと内側の不安だ。
午前中、女性は庭を歩く。
ベンチの前で止まる。
座らない。
昨日はできたのに。
今日はできない。
それでも離れない。
昼過ぎ、食堂に入る。
女性は入口で立ち止まる。
昨日と同じ位置。
だが、今日は動かない。
「……無理です」
小さな声。
私は席に座る。
何も言わない。
誰も助けない。
それがこの場所の形。
女性はしばらく立っていた。
やがて、一歩。
そしてまた止まる。
それでも、戻らない。
夕方、川辺に立つ。
女性は昨日より遠い位置にいる。
近づかない。
だが、離れない。
「……戻ってしまいました」
彼女が言う。
「昨日より、できなくなっている気がします」
私は水面を見る。
「昨日できたことは」
少しだけ言葉を置く。
「なくなっていません」
女性は顔を上げる。
「え?」
「できたままです」
「でも、今はできない」
「ええ」
私は続ける。
「それでも、なくなってはいません」
女性は黙る。
理解できない表情。
だが、否定はしない。
夜、部屋に戻る。
窓を開ける。
風は変わらない。
一度選べた人は、
もう選べない人ではない。
ただ、揺れているだけ。
私は灯りを落とす。
女性は、まだ立っている。
崩れるのか。
それとも、もう一度選ぶのか。
その間にいる。
静かな一歩のあとに来る「揺り戻し」を描きました。
人は一度できても、次も同じようにできるとは限らない。
でも、それでも前に進んでいる。
そんなリアルな変化を積み重ねていきます。
ここからどう乗り越えるのか、ぜひ見届けてください。
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