第76話 返事を書かない人
朝、書斎の机にもう一通の手紙が置かれていた。
昨日の視察希望とは別の封筒だった。
紙質は良く、印章も丁寧だ。
ユリウスが封を切る。
「今度は貴族院からです」
管理人が少しだけ眉を上げる。
「静養地の報告書を求めています」
「報告書」
その言葉は、この場所には少し重い。
私は廊下の窓から庭を眺めていた。
声はよく聞こえる。
「滞在者の変化、回復状況、療養方法」
ユリウスが読み上げる。
管理人は静かに息を吐く。
「書けることはありますか」
「事実だけなら」
「それは」
ユリウスは紙を見つめる。
「特別な療養法はない」
「ええ」
「規則は増やしていない」
「ええ」
「滞在者はそれぞれの時間を過ごす」
管理人は微笑む。
「それで十分ですね」
ユリウスは頷く。
「ですが一つ、返答しない部分があります」
「どこです」
「責任者の名前」
管理人は一瞬沈黙する。
「この場所の中心人物は誰か、と」
ユリウスは紙を軽く叩く。
「報告書には必要だそうです」
私は小道を歩きながら、その会話を聞いていた。
名前。
肩書き。
責任。
ここでは、どれも強くは必要ない。
昼過ぎ、庭でユリウスが私のそばに来た。
「質問があります」
「ええ」
「もし名前を書くとしたら」
私は彼を見る。
「書く必要がありますか」
ユリウスは少しだけ考える。
「ありません」
「では」
それ以上は言わない。
ユリウスは小さく笑う。
「確かに」
午後、彼は手紙を書き直していた。
報告書には数字が並ぶ。
滞在人数。
滞在期間。
だが、名前はない。
夕方、川辺に立つ。
彼が隣に来る。
「中心人物がいない報告書ですか」
「ええ」
「外の世界は困りますね」
「そうかもしれません」
水面は変わらず流れている。
夜、部屋に戻る。
窓を開ける。
外では名前が必要になる。
でもここでは、
名前を書かない方が正しいこともある。
私は灯りを落とす。
返事を書かない人がいても、
この場所は変わらない。
それで、十分だった。
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