第72話 整って去る日
門の前に、小さな馬車が停まっていた。
空は薄く晴れている。
特別な日というほどの色ではない。
エマは荷をまとめ、管理人と向かい合っている。
「お世話になりました」
「こちらこそ」
手続きは短い。
ユリウスが帳簿を閉じる音だけが静かに響く。
私は庭の小道から、その様子を見る。
近づかない。
見送る位置も変えない。
エマがこちらに気づく。
歩いてくる。
「最後に、少しだけ」
「ええ」
彼女は深く息を吸う。
「来たときは、正しくなければと思っていました」
「ええ」
「今は、正しくなくても大丈夫だと分かりました」
私は頷く。
「困っていませんか」
エマは笑う。
「困っていません」
その答えは迷いがない。
「戻っても、急ぎすぎないでいられそうです」
「そうですか」
「もし迷っても、きっと大丈夫だと」
私は何も付け足さない。
「あなたは、ここにいますか」
唐突な問い。
「ええ」
「変わらずに?」
「変えないので」
エマは少しだけ目を細める。
「それが、安心でした」
馬車の扉が開く。
エマは振り返る。
「ありがとうございました」
その言葉に、私は首を横に振る。
「私は何も」
「それでも」
彼女は微笑み、馬車に乗り込む。
車輪がゆっくり動き出す。
誰も手を振らない。
誰も走らない。
門の外へと消えていく。
庭はすぐに静けさを取り戻す。
午後、ベンチは空いている。
だが、寂しさは強くない。
整って去った人は、跡を乱さない。
夕方、川辺に立つ。
彼が隣に来る。
「また一人、戻りましたね」
「ええ」
「揺れましたか」
「いいえ」
水面は変わらず流れている。
夜、部屋に戻る。
窓を開けると、風は穏やかだ。
整って去る日。
それは、特別ではない。
ここは、送り出す場所。
私は、ここにいる。
それで、十分だった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




