第65話 止まるという経験
朝、庭に出ると、アルドがベンチに座っていた。
珍しいことだった。
いつもなら歩きながら考え、考えながら進む。
止まっている姿は、ここに来てから一度も見ていない。
彼は背筋を伸ばしたまま、手に何も持っていなかった。
本も、帳簿も、紙もない。
ただ座っている。
私は少し離れた木陰に腰を下ろす。
声はかけない。
風が葉を揺らす音だけが続く。
しばらくして、アルドが小さく息を吐いた。
「……何もしない時間は、長いですね」
独り言のような声。
私は返事をしなかった。
長いかどうかは、測るものではない。
ここでは特に。
アルドは空を見上げる。
「何かをしていないと、置いていかれる気がする」
その言葉は、速さの理由だったのだと思う。
私はページをめくるふりをする。
本は開いているが、文字は追っていない。
「置いていかれるのは、誰にですか」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
アルドは一瞬だけ固まる。
「……分からない」
「そうですか」
それ以上は続けない。
彼はまた沈黙する。
午前中が過ぎ、日差しが少し強くなる。
アルドは立ち上がらない。
代わりに、肩から力が抜けていくのが見えた。
昼前、使用人が水を運んできた。
「どうぞ」
アルドは受け取り、礼を言う。
短い動作。
短い言葉。
それだけで、時間は進む。
午後、川辺でエマとすれ違う。
エマはアルドに会釈をするだけで、立ち止まらない。
アルドも追わない。
誰も、彼に何かを求めない。
夕方、私が屋敷へ戻るとき、アルドが後ろから声をかけた。
「……今日は、少しだけ分かりました」
「何がですか」
「止まっていても、何も失わない」
私は頷く。
「困っていないなら」
アルドは小さく笑った。
「あなたの言葉、便利ですね」
「便利なだけです」
「それでも、助かります」
助けたつもりはない。
でも、彼がそう言うなら、それでよかった。
夜、窓を開ける。
風は穏やかだ。
止まるという経験。
それは、速い人にとっては、
最初の“回復”なのかもしれない。
私は灯りを落とす。
今日も、静かに終わった。
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