第56話 静養地の空気
朝の庭は、ゆるやかな光に包まれていた。
誰かの足音がしても、
それは急ぐ音ではない。
食堂では、滞在者がそれぞれの時間に現れ、
それぞれの席に座る。
決まった配置はない。
でも、不思議と衝突もしない。
エマは中央寄りの席に座り、
落ち着いた様子でパンをちぎっている。
数日前のように、
周囲の視線を気にしてはいない。
管理人は帳簿を閉じ、
使用人は静かに皿を置く。
誰も急がせない。
誰も指示を出さない。
私は自分の席に座る。
椅子は二つ並んでいる。
隣には彼がいるが、
会話は少ない。
「穏やかですね」
彼が言う。
「ええ」
それだけで十分だった。
午前中、庭にはいくつかの小さな風景がある。
読書室へ向かう人。
川辺で立ち止まる人。
木陰で目を閉じる人。
それぞれが、誰にも邪魔されない時間を持っている。
私はベンチに座り、
その様子を眺める。
中心ではない。
でも、外側でもない。
ただ、この空気の一部になっている。
エマが川から戻ってくる。
足取りは安定している。
管理人と短い言葉を交わし、
そのまま読書室へ向かう。
以前のような「正解を探す」気配はない。
午後、屋敷の廊下ですれ違う滞在者たちも、
互いに軽く会釈をするだけ。
説明も、干渉もない。
静養地は、変わっていない。
でも、空気は少し成熟している。
夕方、庭の端に立ち、
私は遠くを眺める。
彼が隣に立つ。
「最近、静かですね」
「ええ」
「落ち着きましたか」
「もともと、落ち着いていました」
私はそう答える。
変わったのは、
空気に焦りがなくなったこと。
夜、部屋に戻る。
窓を開けると、
涼しい風が流れ込む。
私は今日一日の風景を思い返す。
誰も正解を求めない。
誰も急がない。
ここにいる人たちが、
それぞれの時間を持っている。
私は灯りを落とす。
この場所は、
誰か一人が支えているわけではない。
でも、誰かがいなくなると、
少しだけ違和感が残る。
その「少し」に、
私は含まれているのだと、静かに理解していた。
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