第38話 離れても戻る距離
その話を聞いたのは、朝食のあとだった。
「……数日、こちらを離れることになりました」
あの青年は、湯のみを置きながら、淡々と言った。
理由は、簡単な用事だという。
急ぎでも、重い話でもない。
「そうですか」
私の返事も、それだけだった。
引き止める理由はない。
聞き返す必要もない。
「留守の間、
何かあれば管理人に」
「ええ」
連絡をどうするか、という話は出なかった。
手紙を送るとか、
戻る日を決めるとか。
そういう約束は、しない。
出立の準備は、目立たなかった。
小さな荷。
簡単な身支度。
庭先で、使用人に声をかけられているのを、
少し離れたところから見ていた。
「……行ってきます」
こちらを見て、そう言われる。
「行ってらっしゃい」
それで終わりだった。
見送るために、歩み寄ることもしない。
背中を追うこともない。
彼が門を出ていく音を聞いても、
胸は騒がなかった。
静養地は、
いつもと同じ音に戻る。
午前中、庭を歩く。
彼がいないだけで、
景色が変わるわけではない。
ベンチも、
木陰も、
川の流れも、変わらない。
私はいつものように、
川辺の石に腰を下ろす。
「……静かね」
独り言は、
寂しさを含んでいなかった。
ただの事実だ。
昼過ぎ、食堂に行くと、
椅子は二つ並んだままだった。
一つは空いている。
それを見て、
何かを思うこともない。
私は片方に座り、
運ばれてきた皿に手を伸ばす。
「今日は、少し涼しいですね」
使用人が、そう言った。
「そうですね」
会話は、それで終わる。
誰も、
彼の不在を話題にしない。
午後は、部屋で本を読む。
集中が切れたら、
窓の外を見る。
戻ってくる時間を数えたり、
いつまでいないのかを考えたりはしない。
「……いなくても、
ちゃんと一日がある」
その事実を、
自然に受け取っている自分に気づく。
夕方、庭に出る。
風が、木々を揺らす。
私は歩きながら、
少し前の自分を思い出す。
離れることに、
理由を求めていた頃。
今は、違う。
夜、部屋で灯りを落とす前、
私は一度だけ、深く息を吸った。
不安はない。
期待もない。
ただ、
戻ってくる距離だと知っている。
それだけで、
十分だった。
窓を少し開ける。
夜風が、静かに入ってくる。
離れていても、
関係は続いている。
つなぎ止めなくても、
戻ってくる。
その距離が、
今は心地よかった。
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