第30話 引かなくていい距離
その日は、少しだけ慌ただしかった。
屋敷に、新しい滞在者が来ることになり、
庭先が普段より賑やかだった。
使用人が行き交い、
荷が運ばれ、
声が重なる。
私は邪魔にならないよう、
自然と端へ寄る。
それは、
考えなくても体が動く、
いつもの癖だった。
「……リリア」
名前を呼ばれて、
足を止める。
あの青年が、
少しだけ困ったような顔で立っていた。
「そこ、通路ですよ」
「……あ」
言われて初めて、
自分が壁際に寄りすぎていることに気づく。
「すみません」
そう言って、
さらに一歩引こうとした。
「――引かなくていいです」
静かな声だった。
強くも、
咎めるようでもない。
ただ、
事実を伝える調子。
私は、思わず立ち止まる。
「……癖、ですね」
私がそう言うと、
彼は小さく頷いた。
「そうみたいです」
「皆さんの邪魔にならないようにと……」
言い訳をしようとして、
途中でやめた。
彼は、私の前に立ち、
通路の中央を示す。
「ここで、問題ありません」
「でも」
「大丈夫です」
その言葉は、
根拠を示すものではなかった。
判断を押し付けるものでもない。
ただ、
一緒に立っていい場所を示しただけ。
私は少し迷ってから、
示された位置に戻る。
誰もぶつからない。
誰も迷惑そうな顔をしない。
通り過ぎる人は、
自然に避けていく。
「……こういう時、
いつも引いていました」
私がぽつりと言う。
「ええ」
彼は否定しない。
「それが悪いとは、思いません」
「でも」
「でも、ここでは必要ありません」
その言葉は、
私を変えようとするものではなかった。
ただ、
今は必要ないと示しているだけ。
しばらくして、
場が落ち着く。
人の流れが途切れ、
音も少なくなる。
私は、まだその場に立っていた。
引かなかった。
戻らなかった。
「……疲れませんか」
私がそう聞くと、
彼は少し考えてから答えた。
「慣れているので」
「私も、
引くのに慣れていました」
「ええ」
「でも、今日は」
言葉が途切れる。
「……止めてもらえて、
助かりました」
それは、
感謝というより、
事実だった。
彼は、少しだけ首を傾げる。
「引く必要がない時に、
止まれるのは、
いいことだと思います」
「……そうですね」
私は、ようやく息を吐いた。
夕方、庭に出る。
空気は静かで、
先ほどの賑わいが嘘のようだ。
私は歩きながら、
今日のことを思い返す。
一歩引きかけた。
いつものように。
それを、
叱られもしなかった。
直されもしなかった。
ただ、
止められた。
夜、部屋で灯りを落とす前、
私は小さく笑った。
「……引かなくていい距離、ね」
それは、
近づくことよりも、
ずっと難しい。
けれど、
今日一日で分かった。
少なくとも一人、
私が引かなくても崩れない人がいる。
それだけで、
十分だった。
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