第29話 名前を呼ぶ理由
その日は、空が高かった。
雲が薄く伸びて、
風がゆっくり流れている。
私は庭の端にあるベンチに腰を下ろし、
本を開いていた。
文字を追っているようで、
実際には、あまり頭に入っていない。
「……リリア」
不意に名前を呼ばれ、
私は顔を上げた。
あの青年が、
少し離れたところに立っている。
「何か、用ですか」
「いいえ」
それだけ答えて、
彼は視線を逸らす。
用事がないのに呼んだ、
という事実だけが残る。
しばらくして、
彼は隣ではなく、
一つ空けた場所に腰を下ろした。
「……さっきの」
「はい」
「名前で呼んだ理由を、
聞かれるかと思っていました」
私は少し考えてから、首を横に振る。
「理由があるなら、
そのうち分かると思って」
彼は、ほんの少しだけ笑った。
「……距離を考えなくていい人は、
呼び方も考えなくていいと、
思っただけです」
説明というより、
独り言に近い。
「さん付けにすると、
一歩、下がってしまう気がして」
私は、その言葉を聞いても、
否定も肯定もしなかった。
「……嫌では、ないです」
正直な感想だった。
彼は、それを聞いて頷く。
「それなら、よかった」
それ以上、踏み込まない。
風が、ページをめくる。
私は本を閉じ、
空を見上げた。
呼び方一つで、
関係が決まるわけではない。
けれど、
戻す必要がないという感覚は、
確かにあった。
午後、屋敷に戻る途中、
管理人とすれ違う。
「……リリア」
呼び止められる。
「はい」
「今日は、風が強くなりそうです」
「分かりました」
それだけ。
呼び捨てが、
もう特別ではなくなっている。
夕方、川辺で石を投げる。
水面に波紋が広がり、
すぐに消える。
私はふと思う。
彼が名前を呼ぶ理由は、
距離を詰めたいからではない。
引かなくていい距離に、
もう戻らないから。
「……それなら」
私は小さく息を吐く。
「私も、
考えなくていいのかもしれない」
何を、とは言わない。
夜、部屋に戻り、
灯りを落とす。
今日一日を振り返っても、
胸は静かだった。
名前を呼ばれた。
それだけ。
でも、
それだけで十分だった。
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