第9話「祖母の残した手紙」
朝の光が二階の廊下に差し込み、舞い上がる細かな埃の粒を金色に染めていた。
エレノアは、長らく固く閉ざされていた祖母マーサの部屋の前に立っていた。
この宿へやってきて以来、エレノアは祖母の居室だけには手をつけずにいた。
生前の祖母の気配がそのまま残る空間に踏み込むことが、どこか恐ろしく、また敬虔な祈りを乱すような気がしていたからだ。
だが、地下室の石壁に刻まれたヘンリー伯爵の名と無数の祈りの跡を目にした今、立ち止まっているわけにはいかなかった。
ポケットから、祖母の形見である真鍮の鍵を取り出す。
鍵穴に差し込み、ゆっくりと回すと、乾いた金属の噛み合う感触とともに、重い木扉の鍵が外れた。
蝶番を軋ませて扉を押し開けると、乾いたラベンダーと、古い羊皮紙の懐かしい香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
部屋の中は、驚くほど整然としていた。
簡素な木製のベッド、窓辺の揺り椅子、そして壁際に据えられた年代物のウォールナットのライティングデスク。
窓にかかる麻のカーテンは陽光で色褪せていたが、部屋全体に満ちる空気は、まるで祖母がほんの少し散歩に出かけただけであるかのように穏やかだった。
エレノアは床板を鳴らさぬよう、つま先から慎重に体重を移しながら机へと歩み寄った。
机の天板をなでると、指先に微かな埃がついた。
引き出しを順に開けていく。
帳簿、万年筆の替え芯、乾燥させた薬草の束。
それらの奥、最下段の引き出しの奥底に、二重底になっている小さな隠し蓋を見つけた。
指先を掛け、薄い木の板を持ち上げる。
中から現れたのは、擦り切れた革表紙の分厚い日記帳と、エレノア宛てと記された一通の手紙だった。
封筒の表には、祖母の丸みを帯びた、力強い筆跡で『愛するエレノアへ』と書かれていた。
エレノアは机の前の椅子に腰を下ろし、震える指先で封を開けた。
中から現れた便箋を広げると、祖母の声がそのまま耳元に蘇るような、温かな文字が目に飛び込んできた。
『愛するエレノア。
お前がこの手紙を読んでいるということは、お前は王都での暮らしを離れ、この夕星亭に辿り着いたのだね。
まずは、お前の身に降りかかったであろう理不尽な苦難を、遠くから抱きしめてやれなかった無力な祖母を許しておくれ。
王都の冷たい貴族社会がお前を傷つけ、放り出したのだとしても、どうか自分を責めないでおくれ。
お前が持っているその優しい心は、決して愚かな弱さなどではないのだから。
お前はきっと、この宿の地下室を見つけたことだろう。
そして、そこに刻まれた生者たちの名を見て、戸惑っているはずだね。
なぜ、生きている者の名が、死者を待つ宿に刻まれているのかと。
エレノア、私の昔話を少しだけさせておくれ。
五十年前、私はこの最果ての地で、一人の若い木こりと恋に落ち、結婚の約束をしていた。
けれど、折悪しく北方の国境で大規模な戦乱が勃発し、彼は徴募兵として戦場へと駆り出されてしまった。
そして、二度と帰ってはこなかった。
遺体すら戻らない絶望の中、私は泣き崩れ、毎日この場所で彼の帰りを待ち続けた。
それから二十年の月日が流れた、ある嵐の夜。再び北方で大きな戦乱があり、戦場から逃げ延びてきた一人の負傷兵が、この宿の扉を叩いたのだよ。
それが、若き日のヘンリー・ウォーレン様だった。
ヘンリー様は、自らの部隊を全滅させ、自分一人だけが生き残ってしまった罪悪感に押しつぶされ、すでに心は死人のようになっていた。
王都へ凱旋する力など残っておらず、ただ雪原を彷徨い、この宿へ倒れ込んできたのだ。
私は彼の手当てをし、温かいスープを出し、毎晩、彼が亡き部下たちの思い出を語るのを、ただ黙って聞き続けた。
ある夜、ヘンリー様がふと呟かれた。
「俺の魂は、あの雪原で部下たちと共に死んだ。生きているこの身体は、ただの抜け殻だ」と。
そのとき、私は気づいたのだよ。
この世には、肉体は生きていても、過去の痛みに心を奪われ、魂の一部を置き去りにしてしまった人間がたくさんいるのだと。
やがて春が訪れ、ヘンリー様は宿を発つ前夜、地下室の壁に自らの手で文字を刻まれた。
「北の雪原に友を遺して」。
それは痛みを背負いながらも、残された命を全うするという、ヘンリー様ご自身の誓いだったのだよ。
宿を発つあの朝、ヘンリー様の背中を押したのは、責め苛む影ではなく、友たちの祈るような風だった。
だから私は、この宿を『夕星亭』と名付けた。
夕暮れの一番星のように、道を見失いかけた旅人が、少しだけ羽を休めて前を向くための場所にしようとね。
エレノア。ここは死者の未練に囚われる場所ではなく、生きていく人間が、温かなさよならを告げるための場所なのだよ。
お前には、人の心の奥底にある「誰かを待つ祈り」を感じ取る力がある。
それは、他人の痛みに深く寄り添うことができる、お前の魂の美しさそのものだ。
けれど、決して他人の痛みに呑まれてはならないよ。
お前自身が温かい光となり、彼らの背中をそっと見送ってあげなさい。
そしていつか、お前自身もまた、誰かを待つのではなく、お前を心から愛してくれる誰かと共に、歩む未来を見つけなさい。
いつでも、お前を見守っているよ。
祖母マーサより』
手紙を読み終えた瞬間、こぼれ落ちた大粒の涙が、便箋の柔らかなインクを静かに滲ませていった。
エレノアは唇をぎゅっと噛み締め、膝の上に置いた手紙をそっと胸に抱きしめた。
こみ上げてくる熱い嗚咽を喉の奥で押し殺しながら、ただ静かに、祖母の温もりを全身で受け止めていた。
(おばあ様……)
婚約破棄され、家族から見放され、役立たずの烙印を押されてこの地にやってきた。
心の中にあった、冷たい孤独の澱。
自分はなぜ生まれてきたのか、なぜこんな目に遭わなければならなかったのかという、声にならない嘆き。
そのすべてが、祖母の言葉によって解きほぐされていくようだった。
自分は追放されたのではない。
祖母の温かな祈りを受け継ぎ、傷ついた人々を迎え入れるために、この場所へ導かれたのだ。
ふと、部屋の揺り椅子が、ギィと小さな音を立てて前後に揺れた。
窓から差し込む風が、エレノアの濡れた頬をそっとなでて通り過ぎていく。
ラベンダーの香りとともに、慈愛に満ちた祖母の笑顔が、胸の奥に鮮やかに浮かび上がっていた。




