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夕星亭の追放令嬢~死者を待つ辺境の宿で、不器用な騎士様と温かいスープを~  作者: 黒崎 隼人


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第8話「地下室の名刻み」

 春の雨が二日続き、宿の裏山の土は水分をたっぷりと含んで黒く光っていた。

 雨脚が弱まった朝、エレノアはランタンを片手に、宿の地下室へと降りる石段の前に立っていた。

 夕星亭の地下は、かつてワインセラーや食糧庫として使われていた場所である。

 エレノアが王都からやってきて以来、最低限の野菜の出し入れ以外にはほとんど足を踏み入れていなかった。

 昨夜の雨で、どこかから微かに水が漏れるような音が聞こえていた。

 建物の基礎に異常がないか確認するための見回りだった。

 ギイと音を立てて木製の扉を開けると、ひんやりとした湿った空気が肌をなでた。

 地下室は外見よりもずっと広く、頑丈な花崗岩の切り石で組まれたアーチ状の天井が奥へと続いている。

 ランタンの灯りを掲げながら、エレノアは床の石畳を慎重に進んだ。

 じゃがいもや人参の入った木箱を通り過ぎ、突き当たりの壁の前に立つ。

 水漏れの跡はなく、ただ古い石壁が黒ずんでいるだけだった。

 ほっと息を吐き出したエレノアだったが、ランタンの光を壁に近づけたとき、ふと違和感を覚えた。

 石壁の表面を覆っていた古い漆喰が、湿気によって大きく剥がれ落ちていた。

 そして、その剥がれ落ちた石肌の表面に、無数の小さな溝が刻まれているのが見えたのだ。


「……何かしら、これ」


 エレノアはエプロンで壁の煤を払い、指先でその溝をなぞった。

 それはただの傷ではなかった。

 誰かがノミやナイフの先を使って、一文字一文字、丁寧に刻み込んだ文字の列だった。

『トーマス・バーンズ 冬の白杜鵑草』

 目に入った名前に、エレノアは息を詰め、胸元を強く押さえた。

 喉の奥がかすかに震える。

 トーマス。

 あの、二十年前に亡くなった妻を待っていた、最初の宿泊客の名だった。

 文字の横には、彼が宿を発った日付が正確に記されている。

 ランタンを持つ手に力を込め、光の輪を横へと滑らせていく。

『マルガレーテ・クライン 林檎の香る朝』

『アルフレッド・フォスター 冬の小鳥を妹へ』

 この数ヶ月の間に夕星亭を訪れ、去っていった人々の名前が、そこにはっきりと刻まれていた。

 しかも、アルフレッドの名まである。

 妹のリリィが持っていた木彫りの小鳥を作った、亡き兄の名だ。

 生者だけでなく、ここで想いを遺していった魂の名までもが、石壁に刻み込まれている。


(これらは……誰が刻んだの? おばあ様……?)


 だが、トーマスやマルガレーテが訪れたときには、祖母マーサはすでに他界していたはずだ。

 エレノア自身も、こんな文字を刻んだ覚えはない。

 石壁そのものが、宿の歴史と人々の祈りを記憶しているとでもいうのだろうか。

 さらにランタンを高く掲げ、古い年代の文字を追っていく。

 そこには、祖母が生きていた時代、数十年前の旅人たちの名が無数に連なっていた。

 商人、兵士、名もなき旅人、老いた母、幼い子供。

 誰もが何かを待ち、何かと別れを告げて旅立っていった証だった。

 そのとき、エレノアの視線が、壁の中央付近に刻まれた、ひときわ深く端正な筆跡の一行で止まった。

『ヘンリー・ウォーレン 北の雪原に友を遺して』

 その名を目にした瞬間、指先の温度が急速に奪われ、ランタンの真鍮の取っ手が氷のように冷たく感じられた。


(ヘンリー・ウォーレン……伯爵閣下……?)


 その名を知らないはずがなかった。

 王都において、現国王の信任を一身に集める元軍務卿である。

 貴族院の重鎮として、今なお絶大な権力を握る名門貴族の当主だった。

 エレノアが王都の夜会で何度か遠目に見かけた、威厳に満ちた白髪の老貴族の名である。

 なぜ、王都で今も生きているはずの大貴族の名が、この死者を待つ宿の地下室に刻まれているのか。

 日付を見ると、今から三十年も前の年号が記されていた。

 三十年前といえば、北方の国境で大規模な戦乱があった時期だ。

 ヘンリー伯爵が若き将軍として数々の武功を立て、王都へ凱旋したとされる伝説の戦いである。


(生きている方の名前が、どうしてここに……?)


 これまで夕星亭を訪れた客たちは、皆、死者を待つ生者か、あるいは死者そのものの祈りだった。

 だが、ヘンリー伯爵は生きている。

 今この瞬間も、王都の豪華な屋敷で暮らしているはずなのだ。

 エレノアはランタンを下ろし、石壁から一歩後ずさった。

 冷たい石肌から伝わってくる無数の息遣いに、胸の鼓動が速くなる。

 祖母がこの地に宿を開いた本当の理由と、迷える旅人たちを引き寄せる夕星亭の真の役目が、この暗がりの中で静かに息づいていた。


◆ ◆ ◆


 その日の夕暮れ。

 傷口が順調に回復しつつあるレオンが、包帯を巻き直すために夕星亭を訪れた。

 エレノアは煮沸した熱湯に酒精を混ぜた湯で布を絞り、傷口の周囲を慎重に拭い清めた。

 患部の腫れが引き始めていることを指先で確かめ、傷口を塞ぐトウキンセンカの軟膏を丁寧に塗り広げてから、新しい清潔な麻布を巻きつけた。

 その間、彼女はずっと口数が少なかった。

 その微かな態度の変化を、鋭い騎士の瞳が見逃すはずもなかった。


「……何かあったのか」


 上着に袖を通しながら、レオンが低く尋ねてきた。


「え……?」


「顔色が悪い。いつもならもっと、茶の湯加減やパンの焼き具合について楽しそうに話すはずだ」


 エレノアは視線をさまよわせ、それから小さくため息をついた。

 隠し通せる相手ではない。

 それに、自分一人で抱え込むには、あの地下室の謎は重すぎた。


「レオン様……実は、少し見ていただきたい場所があるのです」


 エレノアはランタンを灯し、レオンを伴って地下室へと降りた。

 男の重い足音が湿った石畳に響く。

 突き当たりの壁の前まで案内し、ランタンの光を漆喰の剥がれた石肌へと当てた。


「これは……」


 レオンは壁一面に刻まれた無数の名前を見渡し、歩みを止めた。

 そして、すぐにエレノアと同じ名前に視線を留める。


「ヘンリー・ウォーレン……元帥閣下か。なぜ、このような場所に名がある」


「レオン様もご存じなのですね」


「当然だ。北の戦線を生き抜いた軍人であれば、あの武神の影を踏まずに歩くことなどできない。……だが、三十年前の日付か。閣下が北の戦乱で、敵の防衛線を突破して英雄となった年だ」


 レオンは手袋を外し、節くれだった指で『北の雪原に友を遺して』という文字をなぞった。


「英雄として凱旋した閣下が、この最果ての宿に立ち寄っていたという記録は、軍の公式記録のどこにもない。……それに、エレノア。この宿は、死んだ者を待つ人間が集まる場所なのだろう」


「はい。私もずっと、そう思っていました」


 エレノアは胸元に手を当て、自らの心に問いかけた。


「けれど、もしこの宿が、単に死者と生者が会う場所ではないとしたら……? ヘンリー様は、三十年前にこの場所で、一体何をなさったのでしょうか」


 レオンは沈黙し、壁の文字をじっと見つめ続けた。

 その横顔には、かつて友を失った自らの傷と、伝説の英雄が抱えていたであろう痛みを重ね合わせるような、深い憂色が浮かんでいた。


「……人は、肉体が生きているだけで、本当に生きていると言えるのかどうか」


 レオンが、ぽつりと呟いた。


「どういう意味でしょうか、レオン様」


「無意識に剣の柄を探り、虚空を見つめたまま立ち尽くすような、戦場で魂の半分を置いてきてしまった奴を、俺は何人も見てきた。王都で栄華を極めていようと、その心は三十年前の雪原で凍りついたままなのかもしれない」


 その言葉は、エレノアの胸を強く打った。

 肉体は生きていても、心の一部を過去の喪失に置き去りにしてしまった者。

 彼らもまた、ある意味で死者を待つ者であり、同時に過去に取り残された死者そのものではないのか。


「この壁は……ただの名簿ではないな」


 レオンは壁から手を離し、エレノアを見つめた。


「ここで過去に別れを告げ、魂を救われた者たちの、祈りの跡だ」


 地下室のひんやりとした空気の底に、微かな名残が重なっていた。

 乾いたラベンダーの渋さ、土の中で冬を越した林檎の甘み、削りたての木屑の青い匂い。

 この宿を訪れ、去っていった人々の祈りが、冷たい石壁の隙間に静かに染み込んでいる。

 エレノアはランタンの火を見つめ、自らの胸にそっと手を当てた。

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